名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

地元の人の言うことは聞かないと

元禄9年9月28日。
文左衛門は巳刻(午前9時)から中野分蔵のところへ行き、頼まれて記録を写す。
夕暮れ前から曇る。
夜になると雨が降る。
戌半(午後8時)より激しい風が家を揺らす。
亥刻(午後9時)過ぎから風が少し弱まるが、雨が段々と強くなる。
しかし、徐々に止む。
成瀬隼人正家老400石水野瀬兵衛が伊勢薦野の湯に入ろうと妻と共に出かける。
薦野の宿へ1里(約4キロ)のところで日が暮れる。
ここの者たちがこの先には川があり、知らない者は夜には渡れないと言う。
しかし、瀬兵衛はもうすでに人をやっているのか、それとも吝嗇だったからかここでは泊らず。
妻も瀬兵衛の吝嗇に気をつかって先に行くことを奨めたので、先へと向かう。
この時、雨や風が強くなり、提灯の火を吹き消してしまう。
ただ、乗物の中のものだけが消えなったと。
川(朝ヶ川とも、松屋川上)を渡ると中に島があったのでここでしばらく休憩する。
すると前後に水が出てきたので、急いで渡り始める。
駕籠引きは足を取られて乗物とともに流れて行く。
瀬兵衛はこれを助けようと流れに飛び込む。
日ごろから水練をしていたが、真っ暗で流れも速かったので死んでしまう。
42歳と。
若党・下女も流されるが、浅瀬に上って助かる。
土方壱岐守が数100人の人を出し、死体を探させる。
瀬兵衛の死体は砂に埋まり、首だけが出ていたと。
この他3人は見つからず。
瀬兵衛には馬場藤八も連れ立っていたが、先に伊勢を参宮するため、桑名から道を一緒にしなかったのでこの災難にはあわなかった。
瀬兵衛の妻は奉公人水手(船乗り)の者の娘であったと。
翌2月に死体が見つかる。
瀬兵衛は勢州三重川で死ぬと。
29日とも。
あるいは宇津川とも。
日用取清水村八兵衛の死体も見つからず。