名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-10-01から1ヶ月間の記事一覧

麦の値段は米の値段の9割とか

宝永2年閏4月2日。蔵の麦の値段は1両で9斗。

宝永2年閏4月の天気です

宝永2年閏4月2日。晴。宝永2年閏4月6日。曇。辰(午前7時)過ぎから雨が降る。段々とジメジメする。宝永2年閏4月7日。晴。宝永2年閏4月10日。曇。辰半(午前8時)から雨が降る。巳刻(午前9時)に止む。その後、薄曇となる。宝永2年閏4月…

温情ですかね

宝永2年4月30日。但馬守(松平友著)様目付竹田源左衛門が暇を下される。厳罰と仰せつけられたが大目に見られてこのごとくと。

結婚を許されないからといって逐電してはいけない

宝永2年4月29日。近江守馬廻組伊藤林右衛門が逐電する。このため父三郎右衛門に命じて探させる。翌1日、参州御油の幸村で林右衛門弟戸市などが見つけ出す。このため馬上で林右衛門は腹と肘を切って死ぬ。年は34。近江守から目付役橋爪十太夫を検使と…

24日に追放された足軽ですか

宝永2年4月27日。昨年冬下屋敷で喧嘩をした東源内が勢州松坂で自害し損ねる。追放者のため名古屋では相手にせず。

江戸へお帰りですね

宝永2年4月26日。松平壱岐守佐屋海道から熱田に泊まられる。

喧嘩にしては罪が重い

宝永2年4月24日。昨年冬に下屋敷で喧嘩した万五郎様(徳川宗春)足軽ならびに木曽右衛門が追放となる。これより前、佐藤治左衛門若党が城下追放、百姓は3ヶ国追放となる。近頃、知多郡大野村の座頭了仙が召されて江戸へ下る。

こちらも御三家

宝永2年4月23日。紀州中納言様が熱田に泊まられる。昨晩のはずであったが新井が難風(暴風)のこの日となる。木曽路のはずが延びて、東海道となる。

身体の病気は心まで病ませる

宝永2年4月22日。小普請竹野谷弥之右衛門が自殺する。初め大公の衆であった。瘡毒(梅毒)を患い、はなはだそれを憂いていたと。

名古屋一の祭礼ですから東照宮祭は

宝永2年4月17日。巳(午前9時)前、祭礼は例年通り町廻りが行われる。目付は上野小左衛門・高力七左衛門。押え足軽頭岡崎弥兵衛・蜷川善左衛門。

関わりになりたくない気持ちもわかります

宝永2年4月16日。舞楽が例年通り行われる。茶堂林作(ママ)が近頃江戸で逐電する。この夜、駿河府中で自殺し損ねる。板乗物にのせて名古屋へ連れて来る。足軽頭市野辺伊右衛門は名古屋へ戻るので泊りが一緒になる。尾州衆のため府中の役人から林朔(マ…

子の不祥事で逼塞か

宝永2年4月13日。運上奉行同心三上瀬左衛門が自殺する。近頃、西村仁兵衛が倅弁左衛門のことで逼塞する。

それなら最初から大光寺に埋葬すればいいのに

宝永2年4月12日。泰心院様の子真如院実珠玉円の墓は今までは大光寺前住隠居日任の山にあったが、この度日任が亡くなったので、この日大光寺に改葬する。

江戸時代も自殺が多いんです

宝永2年4月7日。昼頃、阿知波加右衛門300石が自殺する。年は61。

一緒には出かけないんですね

宝永2年4月5日。上使松平壱岐守が熱田に止宿(宿泊)する。

高家は典礼を司ります

宝永2年4月4日。高家衆が熱田に止宿。名は前(3月23日の項にあります、酒井雅楽頭、松平壱岐守が上使、織田能登守、戸田中務大輔が高家衆)に見える。

普通上司は幕府から諸大名への使いですが、ここは朝廷でしょうか

宝永2年4月3日。上使酒井雅楽頭が熱田に止宿(宿泊)する。

宝永2年4月の天気です

宝永2年4月1日。雨。辰(午前7時)過ぎから止む。曇るが、時には薄く日が見える。雲は乾(北西)へ流れていく。巳(午前9時)過ぎから雲が立ち込める。時々雨が降る。午半(午後0時)西では大雨で雷も数度鳴る。しばらくして雨が止む。段々と晴れる。…

類門って普通は同じ宗派ってことなんですが、それだと意味が通じない。お偉い人と繋がりがあったか

宝永2年3月29日。近頃、出雲守(松平義昌)様歩行衆が小普請巾下時田八郎兵衛のところで、頼母子のことで本重町の町人庄右衛門を叱りつけた上、むね打ちにする。頭のはげさき(生え際)のところを薬研(薬を擦ったり、ひく道具)のように切られる。2人…

左遷です

宝永2年3月28日。供番沼田権太夫は役には不向きと、役を解かれ、馬廻りとなる。この日から願正寺で勧進能が行われる。

こういうことがあるから長いひもなどは危険だ

宝永2年3月27日。夜、水野元右衛門兄はかねてから乱心し、預かりとなっていたが、下帯で首をくくって死んでしまう。願正寺の能の札が替わる。太夫は川北八郎兵衛、ワキは西村孫右衛門・長谷川左兵衛。

結局24日に弥左衛門さんは亡くなります

宝永2年3月25日。夜、弥左衛門を大光寺に葬る。戒名は奥本院幽玄日深と。文左衛門も参詣する。昨夜戌刻(午後7時)、前町奉行同心青木小左衛門・坂加兵衛・寺社十人林分左衛門・小池林太夫が弥左衛門宅にやって来た。大光寺弟子坊主1人を呼びに遣わし…

だからどうした

宝永2年3月20日。近頃、永尾全庵が町で長いいで立ちを用いて、長おり全庵と呼ばれる。中間の寝道具、つむぎ、それぞれの上に羽二重。全庵は寝道具を度々替えると。この項ママ。

こりゃ大変だ

宝永2年3月16日。文左衛門は昼から源右衛門・弥左衛門と岡崎蓮入のところにもてなしを受けに出かける。夕暮れ前、帰る途中で飯嶋七郎左衛門屋敷の坂を半ばまで下ると、弥左衛門が急に右の足をねじって転びそうになったので源右衛門召仕とともに介抱する…

文左衛門、出かけるか

宝永2年3月13日。22日から長嶋願正寺内で勧進能が行われるとの札が立つ。太夫は北川八郎兵衛、ワキは天谷新右衛門。

長患いだったな

宝永2年3月11日。近頃、壱岐守殿同心阿部又左衛門が乱心する。親類などもないため壱岐守下屋敷に引き取る。又左衛門はおととし頃から正気を失くしていた。その後回復しないのでこの度知行ならび屋敷を差し上げる。

これだけのことでも文書にしないといけない

宝永2年3月7日。文左衛門は武右へ書付を持参する。私に聟養子はありません、以上。宝永2年酉3月 朝日文左衛門 印。渡辺源右衛門殿。磯貝武右衛門殿。

金に換えないと生活はできない

宝永2年3月6日。役料米を売り払い、1両で8斗5升。代金は5両2分と銭426文。

内部の犯行か

宝永2年3月5日。夜、久屋下福富伝右衛門のところに盗みが入り、老婆の長持ちを釣り出して下の畠で打ち割り、中の物を盗み去る。伝右衛門は出かけていた。槍持が疑わしいと縛り置く。

名前がわかってて処罰しないのか

宝永2年3月4日。寅(午前3時)に地震がある。近頃、新丁あたりの諸士が博奕をしていると。松井林右衛門などだと。聟養子の廻文がある。彦兵殿の手紙には聟養子のない方もそのように書付寄こすようにと云々。武右のところへ来る7日昼までに持参すること。