名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

2023-01-22から1日間の記事一覧

妻の妹と何か関係があったのか

文政1年10月10日。遠山彦左衛門殿家老沢田助左衛門(聟)養子藤八とういう者が自分の妻の妹を殺し、15日切腹となる。介錯は鈴木(あるいは伊奈とも)某と口伝。

殿の御名代ですかね

文政1年9月23日。熱田で正選(遷)宮が行われる。その前後は大雨、その時には快晴、そしてまた大雨。これにつき、翌朝御名代は中村又蔵(大番頭格朱書 あらず、御用人ナリ)。同25日、楽が行われる。同24日、25日、26日、馬の塔が出る。

やたらと橋の修理

文政1年9月。尾頭橋の欄干が替わる。10月、ムサンド(無三殿)橋が直る。

これも賑やかそうですね

文政1年9月13日。万松寺稲荷社の修復棟上げ、迂宮(遷宮)が行われる。同19日、祭礼が行われ、夜まで賑わう。この時、拝殿が出来上がり、翌春には切通し(朱書無三殿)が出来上がり、翌夏には山門の外から本道が出来上がる。

これは恨みだな

文政1年9月13日。夜、枇杷島桝彦娘が呉服町近江屋利兵衛と縁組し、この晩道具を運ぶと枇杷島の百姓300人やって来て打ち砕くと。

夏でも火事がたまにある

文政1年8月10日。朝5ツ半時(午前9時)から前津長道の行きあたり2町(1町は約100メートル)ばかりが焼失する。

新しい貨幣が出ると品質は悪くなっているもの

文政1年4月。新しい2分判が出来上がり、6月から通用する旨、公儀から触れが来る。厚さ5厘(1寸の1/100)、縦7分(1寸の1/10)5厘、横4分、目方1匁(1匁は約4グラム)7分5厘。

もったいないなあ

文政1年8月28日。夜、戸田町島庄前に銭6貫文を縛り、九抱車(くるま)にのせて捨ててある。

トイレ付とはありがたい

文政1年5月。日置くずや遊参船(遊覧船)が出来上がり、船名は初音丸という。雪隠(トイレ)付きであった。桑名屋の船より上等であった。1日1貫800文で夜の5時までの運航。その後、岡崎屋恵宝丸が出来上がり、その他にも喜宝丸などという同じような…

困ったら神頼み

文政1年6月。日置手代町に幽霊が出ると評判になり、町内で百万遍念仏が行われる。かつまた万松寺珍牛和尚へ銭3貫文で施餓鬼を頼まれたので、和尚は1貫文を自分の地内宝篋印塔へ差し上げ、1貫文は大須の塔へ遣わし、残り1貫文で大施餓鬼を行われる。

何やらやり手の僧侶

文政1年。昨年より肥州(肥前・肥後)から豪潮という天台律の僧がやって来て、万松禅寺で准提観音の法で人を救い、祈祷する。去年の冬から4月まで毎月8の日3日にはたくさん人が集まり、加持を受けるものが多かった。5月になり、府君が御祈祷、千座護摩…

お化けだぞ

文政1年6月。この頃、御深井へウハバミが出たと。見たものは必ず死ぬと。

一体これは何、道に引っかき傷?

文政1年6月27日。夜、七間町1町目から3町目まで爪の跡がある。何とはわからないと。

塀だけが残るなんてさびしすぎる

文政1年6月17日。朝6時前から中之町堀切東北角の寄合500石高木伝右衛門の屋敷が消失する。外長屋の高塀だけが残る。

今でも話題になる宗教事件のようですね

文政1年6月6日。児島備後という者を召し捕らえる。この者は知多郡名和村の生まれで、生まれながらに小賢しく、いつの間にか高山権現なるものを祭り、家を出て30日、40日と旅をし、高山へ詣でていたと言いふらし、その後は家の中に神祠を作ってまつり…

これも馬の塔ですかね

文政1年5月18日。23年目で七間町から馬を出す。家々からもらった樽、蒸籠、菓子袋などが富沢町4町の間に隙間なく積み上げられる。夜になると富沢町1丁目と書いた高張の提灯(竿などにつけた提灯)を2段に灯し、家々の提灯も山のようにあり、18日…

しかしお金がかかりますよね

文政1年5月5日。熱田神祭で今年は馬の塔を美しく飾り、馬の数も多かった。見た大体の数を記す。本馬2疋。牛立村からの2匹、印は馬印。長刀200振、子供は棒を持ち、100余人。衣服いろいろの品、紅天鵞絨、黒天鵞絨、紅縮緬などで、背には牛を切付…

橋の架け替え

文政1年4月。日置橋・伝馬橋が架かる。伝馬橋の擬宝珠の柱は今まで木であったが、この年石で造る。

中程度とはどれぐらい

文政1年3月15日。午の半刻(午後0時)頃、中程度の地震がある。

真っ暗な中で声だけするのは怖い

文政1年4月27日。熱田大宮御修復につき外遷宮(神体を本殿から仮殿へ移すこと)が行われる。参詣すると殊の外大賑わいで、社内の篝火は白昼のようであり、提灯は星のようであった。神幸(神のお出まし)の時は灯火がなく闇夜になったと。ただ、社家師人…

この役者さんたちは当時の花形か

文政1年。この春、橘町裏の芝居小屋を表町に出す。小屋の格好は三都と同様で、向かい側横町などには茶屋を建て並べ、その装いは目をみはるばかりであった。この芝居小屋の北の横町はこの時初めて出来上がる。4月11日は大入りで、市川蝦十郎、坂東重太郎…

なかなか大がかりな能

文政1年2月21日。この日から3日の間、熱田海蔵門外西側で東向きに舞台を組み、奉納の能が行われる。二軒茶屋の北でのこと。願主は大岡宮福太夫、木下正三郎、橋本佐和次。宮福は熱田社家で申楽座(猿楽を演じる集団)とのこと。正三郎の門弟であった。…

流れ星というよりは隕石

文政1年2月20日。夜6半時(午後7時)、大きな光物が艮(北東)から坤(南西)へと飛んでいく。その明るさは昼間のようで、その音は雷電に似ていた。3月2日夜9時(午前0時)にも小さな光物が飛んでいく。

今でも時を告げる放送があります

文政1年1月20日。出来町黄檗大龍寺は500羅漢の際に時の鐘の願いを済ませ、この日鐘楼の手斧始め(大工仕事を始める前に行う儀式)の式がある。午の刻から初めて鐘を撞く。まもなく時の鐘はやむとのこと。

これは名古屋では有名な出来事

文化14年10月。上旬、南寺町西本願寺で東都第一の画工葛飾北斎が120畳敷きの達磨大師を描く。聞いたこともないような大きな絵であった。もっとも堂前の庭で行ったようで水野正信は見ておらず、残念残念。目は6尺(1尺は約30センチ)。鼻は9尺。…

75といえばかなりのお年

文化14年5月24日。万松寺寂照大和尚が亡くなられたので、今度は江戸に隠居しておられた珍牛和尚を御招聘し住職を仰せ付けられる。昔は濃州関龍寺の住職で、齢は75.その入院(住職となって寺に入ること)は見事で、前代未聞の大入院であった。(後略)

何でもあやかり商売にする

文化14年。竹腰山城守殿は初めての1年江戸勤めをする。いたって評判よく、江戸では竹の格子染めと呼んで、手拭いや着物に至るまで大流行する。

蛙の子は蛙

文化14年4月15日。江戸深川八幡宮において大矢数通矢が行われる。尾張家臣で弓の師である杉立信吉は15日暮6ツ時(午後6時)から16日7ツ時(午前4時)までに9159本射る中で通矢5368本。その後100本射る中で通矢58本。江戸では今ま…

ハラハラドキドキ

文化14年。城南大須に曲馬がやって来て、紙乗りを見せる。女の太夫であった。紙はもちろん丈夫なものであったが、見る者はみな手に汗握り、その危うさは言葉では言い表せなかった。稀代の騎方(乗り手)であった。感心感心。

原因は何だろう

文化14年3月。西の方に住む親子3人が首をつって死んでしまう。