宝永5年3月22日。
磯姫様の御供をして江戸へ向かった新番8人は江戸へ留まるはずであったが、15日急に尾張へ戻るようにとのことで、江戸を出発しこの日尾張に到着した。
いずれも引き籠り、出ることはできなかった。
最初名古屋で御供を仰せ付けられた時から五十人衆と一緒になって御供をすることをとても嫌がり、いろいろなことがあった。
御屋形で源五兵・与兵が申されたのは今度の供は格別のことであるので、それぞれ一生懸命勤めるようにと。
川などを渡る際は和解のだから裸で飛び込んで輿を大事に守るようになどと丁寧なあいさつがあった。
すると新番8人の中から誰やらが進み出て、我らは水には無案内なので川へ飛び込んで輿を守ることはできない。
また女中の輿に裸で御供をするのはいかがかと余計なことを言った。
与兵も気分を害し、水に入ることはさておき、我らも御供することは大事と思っているのでお前たちと意見を組みかわすためのことだと。
それならばお前たちの好きにするがよいと申されると。
道中大井川と富士川で御供にあたった者はくたびれて持病が出たと言って全員駕籠で川を渡り、輿の御供をしなかった。
これらのことが耳に入りはなはだ不快と云々。
足軽頭大沢無手右衛門も御供でありながら本陣を通り過ぎ、江戸で叱られ、引き込むと云々。