宝永3年11月9日。
戌刻(午後7時)、厩で火が出た。
文左衛門は城へ出かけ、亥刻(午後11時)におさまったので帰った。
長屋が焼けたが、門などは少々焼け残った。
焼け残った木柱を入札で1分1朱で売り払った。
神君から譲られた蟹の鞍、その他鞍・鐙(あぶみ)が多く焼失してしまった。
金物も焼け残らなかった。
いかにも怪しいことと云々。
後で聞いたところでは中間が近くの者を呼び寄せ、博奕のようなことを行っていたと云々。
後に中間は揚り屋に入った。
末々にこのことを記す。
馬は残らず放たれたので傷(アヤマチ)はなかった。
その夜は屋形の馬屋に繋いだと。
作事方の鳶茂八が死んでしまった。
これは長屋の柱の根元を切って大勢で引き倒した際に逃げ遅れて潰されてしんでしまった。
町方の人足市兵衛という者は火の中に倒れこんで死んでしまった。
阿弥陀寺に吊った(入れた?)。
その他足軽などで傷つく者もあった。