名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

本当かなあ

宝永3年10月13日。
代官水野文四郎が語ったこと。
濃州多芸郡大野村へ江戸から座頭がやって来た。
19歳の小座頭でケイシとかいう。
いろいろと奇妙なことがある。
百姓が刀を出して試してみる。
座頭が探って言うには永正介定だと。
また脇差を見て藤嶋友重だと。
また脇差を見て驚き、波の行平かと。
すべて的中する。
ある百姓が脇差を買い求めたと言って差し出す。
これは言うほどのものでもない、340,350文で調えたものかと。
果たしてそうであった。
百姓の子3歳が病気になったので針を立て、今はよくなったけれど今夜戌刻(午後9時)には死んでしまうと言って立ち去る。
大人や子どもに針を深く刺すが少しも痛まないと。
1里(1里は約4キロ)ほど離れた寺で戌刻(午後7時)その方角をあえぎながら言うには、悲しいことだ、あの子は今死んだと。
後で聞くとその通りだった。
婆の脈をとって死が近いと言う。
すると60日目に果たして死んでしまう。
数人の脈をとりおえて言う。
初めと5番目に脈をとった者は親子か兄弟と言うとその通り。
そのほか居合・剣術・鑓など全て鍛錬していた。
棒を使うと2間(1間は約1、8メートル)あまり飛び越えて軽く翻す。
座敷の隅から2、3間飛んでこれは和(柔)のぬけ身だと言う。
見る者は興ざめすると云々。
養老の滝の山の上、人も通わぬところを3里(1里は約4キロ)行って帰って言う。
この滝の源は39の谷から落ちている。
その流れは細いが強いもので、あるところでひとつになると。
富士や立山などの名山も見えると。
神道・儒仏・歌道にも通ずる。
歌には少々疑わしいことがあり京へ行く途中だと。
文四郎はそのうちの1つ、2つを実際に見たと。
近頃、河田村の古塚から石棺を1つを掘り出した。
こうず石のようで8尺(1尺は約30センチ)ばかりと。
ここでは田6畝(1畝は1アール)が放置されていた。
中にはなべ鉉のようなものもある。
劔の朽ちたるもの、茶碗が欠けたようなものもある。
これはひらか(平瓮)である。
これはわが国で昔葬送の際に用いた食器である。
武帝の時代白鳳7年丁丑、昔の官号である小乙中羽栗臣人麿が尾張国葉栗郡に尼寺を建立した。
号は光明寺、今は上門間の庄にある。
人麿はこの郡の人であった。
ここで亡くなると旧記にあった。
それならばこの塚は思うに人麿の塚であろう。
この古墳は光明寺から今は乾(北西)3町(1町は約109メートル)ばかり離れていた。
ここには古塚がまだ3、4残っている。
これは葉栗氏代々の塚であろう。
しかし、それを明らかにするのは文献が足りない。
葉栗臣は天足彦国押人命の3世彦国茸の後継であるとは天野信景の考え。