名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

どうも召し抱えられた侍は怪しい

宝永3年4月21日。
和州郡山牢人原田八右衛門が40石に5人扶持を下される。
馬廻りに玄蕃殿宅で召し抱える。
昨年春、八右衛門は話題になっていた。
長久寺にやって来た赤穂の牢人で、40貫目の鉄砲を杉の木筒で打つ者だと。
この度は鉄砲ではなく、軍学の達人と申し立てており、先月頃から長久寺前住江戸愛宕が願い出ていたので、この度召し抱えられる。
武兵町大下の横丁、俗に四軒町に住む小普請組横山善右衛門妻の兄で喜平太甥という斎藤杢之右衛門なる40ばかりの男がいた。
元は六郎様の御徒で今は牢人であった。
少々金銀もあるので善右衛門一家のところに住み、妾を抱え、この女をとても愛していた。
しかし、善右衛門夫婦や親類が意見し、昨年暇を出した。
この春、この女はいせ(伊勢)町革屋六左衛門の妻となった。
しかし、日々善右衛門のところに出入りし、この21日昼にもやって来ていた。
杢之右衛門は座敷の路次から呼び入れ、話をしているように見えたが女を切り殺し、自分も自殺した。
その時、善右衛門は出かけていた。
帰って驚き、頭に報告する。
死骸の見分は小普請頭組肝煎と町方と目付方の3ヶ所で行われた。
翌夜、女の死骸は親類どもに渡した。
23日未(午後1時)過ぎに杢之右衛門死骸は取り置くようにと云々。