名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

奥田弁右衛門って良い人です

宝永3年4月23日。
近頃、江戸において五十人組奥田弁右衛門召仕が乱心する。
髪を切り、麹町の寺へやって来て出家を望む。
様子がおかしいので弁右衛門に知らせると、弁右衛門が引き取り、尾州へ戻そうとする。
小身のため判断をあおぐが、そのような例がないと相手にされなかった。
そのため自らの責任で尾張へ戻すこととする。
板乗物を留守居方で借りる。
公儀関所の証文が届くと乗物とだけあり、板の字はなかった。
弁右衛門はこのことを頭に知らせるが、不案内の頭はかえって気に召さず、そのまま8人を付けて戻らせた。
しかし、やはり箱根では板の字がないからと通してもらえなかった。
畑の茶屋に戻って逗留し、江戸へとこのこと知らせると直した証文がやって来たので通ることができた。
来月6日に奥田庄九郎のところに到着し、請人に渡す。
弁右衛門はかなりの出費で金子15両あまりと云々。
この日、玄蕃殿同心朝比奈市兵衛が死ぬが子どもはいなかった。
故浅野内匠殿家来奥野将監の子である弟を跡取りにと願い出るが叶わず、屋敷は差し上げる。
この夜、間嶋忠左衛門の若党が仲間の茶の間女を切って逃げ去る。
女はいまだ死んでいなかった。
忠左衛門は自分の組下で心中があり、ようやくこの日に片が付いていたが、また我が家で心中があったので夜中に老中へ出かけ、このことを報告する。