名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

有名な元禄13年の大火事、名古屋の半分が焼失したと

元禄13年2月7日。
辰半(午前8時)過ぎ、信行院のあたりから火が出る。
火は広大な範囲に及び、丑9刻(午前3時前)に消し止める。
長助という者が火を出し、これで3度目の出火なので預けられる。
文左衛門は急いで走り帰り、ようやく昼過ぎに鉄門へ出る。
そこから玄蕃殿前の土居へ出かける。
しかし、これは彦兵衛使いの聞き間違いで、仲間が出かけたもの。
その後、鉄門へと帰る。
御深井へ火の粉が少し飛んできたので、御深井へ出かける。
その後、榎多門へと行く。
激しい炎が大空を染め、まるで数え切れないほどの雷のようであった。
文左衛門は生まれて初めてこのような火事を見る。
別に絵図もあるので記録をする。
町方は53町(1町は約100メートル)、一説では736軒。
御国方131町、933軒、一説では900軒。
家の数は合わせて1669軒、一説では1649軒。
借屋の数はわからず。
町は合わせて184町。36町を1里として5里4丁。
橋は3つ、小橋の数はわからず。
侍の家21軒。
神社は3社、寺は12寺。
出雲守(松平義昌)様は米3000石を森喜兵衛の預けていたが、蔵が焼け、米は全て焼失してしまう。
ただし、喜兵衛は方々にかなり負債があったので防ごうとせず蔵を焼いた。
この度の火事については色々と奇妙な話があったが、ここでは略す。
他国では方々で6日深夜から名古屋の火事が見えた。
寺西図書殿の屋敷では女が焼け死ぬ。
その他町では焼死する者が少し出た。
惣河戸では子を産んだばかりの婦人が子を抱いて乳母と船に乗っていたが、夕暮れに図書のところを焼いた火が西乾(西北西)へ燃え広がり、その火で全員が船と共に焼かれて死んでしまう。
この日の狂言は中入りまで行われた。
五十人目付、町奉行同心など早く終えさせなかったのは幸いである。
上材木町・下材木町では竹薪など全て焼失し、この後材木などの値段がはなはだ高くなる。
万治3年(1660年)1月14日の火事も記す。
未上刻(午後1時)に出火し、寅上刻(午前3時)に消し止める。
侍の家112軒、一説には120軒。
寺は30寺。
町屋2628軒、一説には2328軒。
町数8623間3尺(1間は約100メートル、1尺は約30センチ)。
町中へ下されたものは1000貫匁、榑木(材木)50000丁、松木50000本。家中へ高100石につき10両、榑木100丁ずつ下される。
今度の火事で下されものはこの数を超える。