名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

母親の死を悼んでの大騒動

元禄7年9月3日。
辰半(午前8時)過ぎ、文左衛門は松井十兵のところへ出かける。
奥方は既に息絶えようとしており、文左衛門はこのことを忠兵のところへ行き、このことを伝える。
忠兵を連れて再び十兵のところへ出かける。
巳半(午前10時)過ぎのことであった。
体力は既に尽きようとしており、御せう・御丹・妙善・意休・心斎・惣左・下女が取り囲み、念仏を唱えていた。
悲しみの声が周りの人の心を痛める。
午刻(午前11時)には死んだようであったが、今朝人参の薬の服していたのでかすかに息をしていた。
時々唸り声をあげるようであった。
御せう・御たのの悲しみは深く、息をのみ、涙を浮かべて病気になってからのことを話していた。
一昨日の夜、鰯の夢をみたのは凶事であったか、それとも吉事であったか。
その他にも夢の話をして、姉妹は目と目を合わせ、このようになるとは夢にも思わなかったと。
いまだ死ぬことのできない母親にすがりつき身をもだえる。
文左衛門は申刻(午後3時)に家へと帰り、上下を持って日暮れにまた十兵のところ出かける。
御慶も忠兵まで行かせる。
戌刻(午後7時)についに病人の息は絶える。
寒々とし、灯は寂しげで、焼香の煙にむせぶ。
その時、御丹が悲しみのあまり身をそらせて気絶する。
皆は驚き、大勢で口を開け、薬を入れて水を飲ませ、額を押さえる。
そして急いで耳元で名前を呼びかける。
出入の婆10人ばかりの様子は駱駝や海老、鬼母の様に成るもの、右へ左へと走り回る。
勝手の下女、客は座敷から奥へと集まる。
この時、妙音は悲嘆にくれ、おいぬは産枕を放さず、御せうはこの騒ぎに座敷で息潜める。
奥から急に喉が渇いた、水だと声がして、艾(もぐさ)はないかとわめく声がする。
気がつくから急いで灸だと叫び、茶わんをもって大黒柱や人にぶつかり者もあった。
茶の間、台所は大騒ぎとなる。
玄関・廊下は大混乱となる。
ようやく針を立て、息を吹き返す。
その後、医師慶がやって来て薬を調合するが、また気を失う。
しばらくすると気がついたのでいたわりながら介抱する。
このためこの夜の葬礼は延期となる。
この時やって来ていたのは、文左衛門・忠兵衛・才兵衛・勘助・勘左衛門・山田三之丞・山田可休、その後彦坂平太夫などもやって来る。
文左衛門は子刻(午後11時)過ぎに帰宅する。