名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

それならもっと早く手を打たないと

元禄5年7月23日。
夕方、中根平兵衛が下僕一人を連れて建中寺前へやって来て、七右衛門という者のところへ出かけた。
この者は春まで召し仕えていたが、訳あって正月に暇を出された。
一説では平兵衛は暇を出す時、御国からは追放するがその後許すと約束したと。
「中根平兵衛だ、ここを開けろ」と言うが、戸は開かなかった。
それでいったん家に帰り、その夜丑の刻(午前1時)に下僕に提灯を灯させもう一度出かけ、呼びかけるが戸は開かなかった。
そのため裏に回って中へと入り、火をかかげて抜き打ちで七右衛門にきりつけた。
七右衛門は大いに驚いて隣の家へと駆け込んだ。
隣人は狼藉者だと思い、裸で飛び出し組み合った。
上に下にと組み合っているところへ平兵衛が押し入り、ついに七右衛門を切り殺した。この時、隣人も手に少し傷を負った。
平兵衛は僕に町人に町代の家を聞いて、そこで中根平兵衛は訳あって下僕を切ったと言ってこいと言うが、どの家も戸を固く閉ざし誰も出て来なかった。
そのため主従は中根平兵衛訳あって下僕を切り殺したと声をあげた。
怪しむことはないと数度声をあげながら、血の付いた帷子を帰り道で洗ってから家へと帰っていった。
この間、家では妻は平兵衛が出かけたことに驚き、都筑分内・同理右衛門に探させていた。
その間に平兵衛は家に帰り、熟睡していたと。
同24日午(午前11時)、平兵衛は屋敷を空け、まず道具を加藤平左衛門のところへ送った。
文左衛門が思うには、平兵衛はこの春から気分がすぐれないようであった。
気力も衰え、平常心を失っていた。
先々月も、平兵衛は白昼に抜き身の槍を携えて僕の部屋に行き、何もなかったかのように槍を突きつけた。
僕は刃が頭の辺りを通ったので騒いだ。
家の者もこれを見て、平兵衛を中へと押し込めた。
僕は憤慨し幸いにも命を落とさなかったので暇を貰いたいと。
このため平兵衛親類はいろいろ宥めて思いとどまらせた。
このことからも乱心は疑いないことであった。