元禄14年6月6日。
熱田仏閣の検分のため江戸から古川武兵衛・江川太郎左衛門が到着する。
こちらからのからの接待は受けず、町屋に宿をとる。
破損等はこちらの負担で作事方が行う。
五十人野々垣助右衛門の居候御目見手川喜三郎という者が手川治右衛門より召し抱えた僕に暇を出した。
この者は喜三郎母と関係を持っていた。
近頃、台所口までやって来て悪口を言い始めた。
これを止めさせようとしたが止めないので切り殺したと。
下部の歳は50ばかりと。
僕と喜三郎母との関係は長く、治右衛門が病気になった際には女の伯父野々垣助右衛門と五十人仲間野呂源兵衛に縁があったので治右衛門のところへ女を遣わした。
この時に女と僕は関係を持った。
治右衛門が死んで僕は上手く立ち回り、町屋を借りて自分の寝所を女の近くに拵えた。
源兵衛はこのことを詰問して暇を出したが、僕は従わなかった。
源兵衛が大いに叱りつけたので出て行った。
その後、家の仕事のためと源兵衛は町屋へ女を引き取り妻とした。
僕はこれを聞いて含むところがあった。
源兵衛が江戸へ発った後、女が喜三郎と共に巾下新道の介右衛門借屋にいると聞きつけ、僕はそこを訪ねるが隠して何も言わなかった。
僕は昼夜3日間ここで待ち伏せするが会えなかったので、押し入ろうとした。
助右衛門はやむを得ず切りつけると、僕は走って門から逃げ去り死んでしまった。
喜三郎は出てきてとどめをさし、自分が切ったことにした。