名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

弥左衛門は乱暴者

元禄8年2月4日。
曇。
文左衛門は召仕市右衛門が暇を乞うので暇を出し、代わりの人を雇う。
初めて髪を結う者で、僕の切米(俸禄米)1両2分2朱。
この日までは久米分之右衛門のところにいた者であった。
夜戌半(午後8時)過ぎ、坤(南西)の方角で火事があり、左衛門は仲間と兵右のところへ行き、帳に記す。
しかし、広小路より南であったので、文左衛門は急いで忠兵のところへ走って行く。
ようやく忠兵門へ着くと、火が南へと燃え上がるのが見えた。
まずは安堵して中へ入ると津金佐右衛門が御勝手にいた。
御慶は元気であった。
忠兵は愚入の家へ行って人を手配したので愚入の家は燃えなかった。
火元は日置村の橋詰、東北角の木引の家から燃え出した。
折からの西風で、火は急に四方に燃え広がった。
往来の人々は大騒ぎとなった。
100万の提灯が星のように連なっていた。
火の粉が空を飛び、煙は東へと流れた。
丑の刻(午前1時)になってようやく消し止める。
大小600軒ほどの家が焦土と化した。
文左衛門は忠兵が帰るのを待って帰宅する。
時刻は丑半刻(午前2時)であった。
この夜、勢州松坂でも大火事があり、鳴海などからは両方の火事が見えたと。
先月28日、野本弥左衛門僕が暇を乞うが許されなかった。
この日の弥左衛門が留守の時、この僕は弥左衛門の母に暇を貰いたいことをしきりに訴える。
母も弥左衛門の考えがわからず、暇を許さずに中に入ってしまう。
僕は追いかけ、母をつかまえて乱暴をはたらく。
下女どもが走り寄り、僕を引き離し、戸を閉めて中へ入れなかった。
僕は戸を叩き続けた。
その時、弥左衛門が帰って来て、怒り始める。
僕を引きずり出して、側にあった壁土をこねた中に放り入れる。
そして終には切り殺してしまう。