名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

見てる人はちゃんと見ている

元禄5年9月28日。
摂津守義行公が田辺彦四郎を激しく叱責する。
先ごろ、義行公が彦四郎を呼びつけたが病気と言って出てこなかった。
重ねて駕籠に乗ってでも出てこいとの命があるが急病なので無理であると出てこなかった。
しばらくして回復し、9月15日に出仕した。
顔を拝むこともしなかった。
この日、仰せにより御前に出て1間(1間は約1、8メートル)先に脇財を抜いて置いたが、津守は御小姓に命じて脇差を彦四郎に差させ、御前の人々は皆側に退出させられ、その間の唐紙を立てた。
しばらくして仰せのことがあるが、詳しいことはわからなかった。
その間、興奮したような御声があがる。
脇差をいつでも抜けるようにした上で、御屋敷に足を踏み入れること、御目通りに出ることは禁止すると仰せになる。
彦四郎は甚だ赤面し、御前を退く。
御玄関で飯嶋清蔵に出会い、今までのことを話して聞かせ、更に納得はしていないので清蔵宅へ行って詳しく言い分を話したいと云々。
清蔵が応じるには、貴殿は怒りに触れて御前に出ることはできない身でありながら、自分に家へ来てもらっては困ると。
御前に出ることが許されたなら、自分から出向いて行こうと云々。
彦四郎は逼塞となる。
世間で取りざたされたのは、彦四郎は依怙贔屓ばかりをする者で昨年の御借金の際も彦四郎の指示であったが、出雲守様の御家中のためにはに借金をしたのに、津守様の御家中のためにはしなかった。
この御叱りも宰相様の御内意であったと。
世間では彦四郎を依怙四郎と呼んでいた。