名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

富士山大噴火

宝永4年11月23日。
戌半(午後8時)、大きな地鳴りがする。
夜、少し揺れる。
日門様が鳴海に泊まられる。
小田原にこの夜佐藤善次右衛門が泊まっていた。
1晩中雷が鳴っていたが、この雷というのは地鳴りで本当の雷ではなかった。
この音は大きく、地面が揺れるのはおさまらなかった。
富士と足高山の間で10間(1間は約1、8メートル)あまりの炎が2丈(1丈は約3メートル)燃え上った。
激しく石が焼け、飛び散ったと。
戻ってから話したことで、文左衛門は若林元右からこの話を直接聞いた。
松平大膳大夫の飛脚三郎左衛門が今月27日の朝に熱田で話したこと。
23日昼過ぎ、江戸の近辺は黒雲が空を覆い、真っ暗になり、灰砂が降った。
24日未刻(午後1時)、上州小田原へ行くと富士山が燃え上がり、5,6匁(1匁は約4グラム)から10匁までの小石が降っていた。
黒雲が空を覆い、道も見えなかった。
道は通ることができなかったので現地に逗留し、本陣から通行不能の手形を取り、国元へやって来た。
25日平塚で聞くと、戸塚・梅沢まで24日と同じだったと。
三嶋・沼津・原・吉原あたりもいまだに地震が続いていると。
所の者はいずれも別のところへ立ち退いたと。
尾張から来た者の話では、藤沢では小石が降り、地面が隠れるほど積もった。
石の大きさは胡桃ほどで全て焼石であった。
27日、尾張名古屋でも鍛冶屋町下などでは富士が焼ける煙がよく見えた。
寅(午前3時)から卯の刻(午前5時)まで火がよく見えた。
朝の間は煙が黒雲のように見えた。
昼の間も時にはよく見えた。
文左衛門の住むあたりでは日の出前におびただしい黒雲が空を覆った。
日の光が映っているのか赤かった。
真東に見えたのがしだいに北の方へ寄ったと。
これが富士の煙であった。
そのほかあちこちでも見えた。
世間では立雲と呼んでいた。
毎朝見えたが、曇の日には見えなかった。
文左衛門の伯父広瀬半右衛門は野崎村にいたが、富士が焼けるのを夜な夜な見ていた。
火の中に時に日の玉が上るのを見たと云々。