名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

江戸での事件ですが有名なので

元禄14年3月14日。
子刻(午後11時)前、火の手が南の方角であがる。
庚申堂側の町屋10軒ほどが焼ける。
城の方角でなかったので文左衛門は出向かず。
仲間は大方彦兵へと出向く。
今後は名古屋での火事であるなら出るべきである。
江戸において喧嘩がある。
毎年春、勅使・院使が江戸へ出向く。
高家吉良上野介と他の大名が2人でこの接待を務める。
この度も上野介と浅野内匠頭と他に何某という者が務めた。
某は賄賂を上野介に遣わし、上手く取り計ってくれるように頼んだ。
内匠頭にも音信(贈物)を遣わすべきと家老が勧めるが、賄賂などでへつらうことはないと遣わさなかった。
吉良は欲深かったので前々から皆贈物をしていた。
この度の内匠頭のやりかたは不快だと何事においても相談にものらず、知らせることもなかったので内匠頭は全て上手くいかなかった。
内匠頭はこれにあh含むところがあった。
この日、殿中の老中の前で吉良はこの度内匠頭は全てにおいて首尾がよくなかったのは勿論、公家衆も不快と感じていると言った。
内匠頭はますます含むところがあり、座を立ち上がる。
そして次の廊下で内匠頭は刀を抜いて声をかけ、吉良の烏帽子めがけて頭を切りつけた。
吉良は驚いてくぐりの様なところをくぐろうとするのを後ろから腰を切りつけたが、両方とも傷が浅く無事であった。
なおも追いかけようとするのを腰物番梶川与三兵衛が後ろから内匠頭を組み止めて動けなくした。
翌日、与三兵衛は500石の加増で1500石となる。
内匠頭はすぐに田村右京太夫に預けられ、その夜切腹を仰せ付けられた。
勅答が終わらぬうちに、殿中で狼藉をはたらくとはははなはだ不届きとのお考えと云々。
吉良には何の処分もなく、単なる喧嘩とのお言いつけで、吉良は傷の手当てをして前の通り勤めると云々。
内匠従兄弟戸田采女(うぬめ)頭、内匠弟浅野大学の両人には内匠の家来などが騒ぎを起こさぬよう国元に知らせるように仰せ付けられた。
この日、勅答もいまだ終わっていないので、特に殿中での喧嘩ついては是非を論ぜず。
先に太刀で斬りつけた方に非があることである。
上野介は4200石、従四位下少将。
父は若狭守。
内匠は長矩と。
50000石あまり。
居城は播州赤穂
江戸から155里(1里は約4キロ)。
内室は松平紀伊守の娘。