名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これはたいそうなお葬式

元禄13年10月28日。
辰(午前7時)過ぎ、遺体が建中寺に入られる。
内陣(本殿)に入られる。
高岳院・美濃守・甲斐などが供をする。
昼頃、葬送が行われる。
津守様(松平義行)は昼前直に建中寺に着かれる。
供は長上下、但馬様(松平友著)は長上下、供の甲斐はいろ(白衣)を着用し、額には角帽子を当て、位牌を擎(ささ)げて供する。
輿を舁くのは小人白丁(雑用人)。
棺の重さは300貫目(1貫目は約3,7キロ)と。
白輿の上を白い練(絹織物)で覆う。
小姓ら供は白い練を着る。
永田一郎右衛門は願いが叶い、昨日落髪する。
石槨(棺をおさめる施設)内のりは4尺1寸5分(1尺は約30センチ、1寸は約3センチ、1分は約3ミリ)。
惣槨内のりは2間(1間は約1,8メートル)4方。
槙の5寸板、高さは1間あまり。
棺は3尺5分。
4方の高さは4尺。
石槨と棺の間は三つ物(武士なら鎧の胴、袖、兜?)を詰める。
惣槨と石槨の間は炭の粉を詰める。
廟所は東向きの6間4方御仮屋に、南北に1間につき4間の廂がある。
片方は書院番、もう片方は50人衆が番を昼夜とも寝ずに勤めるが、かなり寒いようであった。
向かいには東に1間に5間の番所がある。
野崎源五右の足軽が勤める。
また西の板囲いの外にも9尺に3間の足軽番所がある。
その他にもある。
葬送場は東西南北20間4方。
南門額は修行門、西は菩提門、北は涅槃門、東は八心門。
門はそれぞれ冠木門のようであった。
上は白布が張られており、門の広さは2間。
葬送場の北には尸位小屋がある。
仏書では子位小屋という。
天井には白布。
葬送の棺を置くところは9尺に2間。
天井には白布。
東等覚門、南明覚門。
棺は発心門より入られる。
中で3度廻った後、修行門から出て廟所へと向かう。
発棺から僧らは無言。
鐘・太鼓らを打ち鳴らし散華。
発心門の外には六観音を紙に書いて板に張り付け、柱にかけて2列。
南の方は西から千手観音、馬頭、准泥。
北の方は西から正観音、十一面、如意輪。
鎖龕(棺のふたをする)は尋声寺。
起龕(棺を送り出す)は瑞宝寺。
念誦(念仏を唱える)は遍照院。
洒水(身を清める)は養林寺、梅光院。
奠茶(茶を供える)は光明寺
奠湯(湯を供える)は阿弥陀寺