名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

真実は如何に

元禄7年7月29日。
辰半点(午前8時)まで雨が降る。
その後雲が出て、時々雨が降る。
公は御下屋敷から大殿様を巳の刻(午前9時)に訪れる。
すぐに御城に入られる。
文左衛門は拝謁に参上するが、この間少し雨が降る。
御目見衆は合わせて39人。
御供組50人の言うには御目見衆は申し合わせて待つようにと。
その後成田新五左衛門が現れ、一人だけ参上するようにとのことで相原荻右衛門が参上する。
新五左衛門が言うのは、今日の御目見衆の名・頭の名・親の名を書いて出すようにと。
すぐに五十人衆水野文四郎・諏訪部弾平がやって来て記す。
渡辺監物組天野儀平が閉門仰せ付けられる。
先ごろ、狐を切り殺したこともある雲州様(松平義昌)御領地奉行大田紋左衛門が奥州で死んでしまった。
この倅紋太夫は、実は儀平の子で、生まれると襁褓(おしめ)に包まれ紋左衛門のところへと寄こされた。
人々はこのことを知らなかった。
この度、紋太夫にこのことの真偽を問いただされた。
太夫はこの事実を知らなかった。
終には雲州様より儀平に尋ねられ、儀平が答えた。
先年、自分が五十人目付の際、江戸留守にした後、下女の腹に子どもが出来てしまった。
しかし、どこへ遣わしたかは知らないと。
すぐに紋太夫が生まれた年を調べると、儀平はこの年江戸にはいなかった。
儀平はこのことを隠した上に、嘘までついていた。
急いで仰せ付けたが、内々のためこの如くと。
或いは、紋左の内室(夫人)は継子(ままこ)紋太夫と忌中に大げんかをするような女であったとも。
太夫はしばらく若林是入のところで蟄居となる。
内輪のことであったので、後々困らぬよう儀平から我が子であるとの申し出をしたとも。