元禄9年12月13日。
甚目寺内比丘尼日新が杉浦能登路・榊原善兵衛に御預けとなる。
日新は安倍道半の娘であった。
争いごとのため。
この後、親類たちの願いによりせべ(瀬部)村へ蟄居となる。
その後、死んでしまう。
この争いは3年前からあった。
甚目寺中興開山は聖観上と言った。
その影(遺影?)を日新(あるいは日親)の院内で代々安置していた。
普峰院様御再興、このため開山の塔所だと比丘尼は言い張った。
その後、寺で相談し、別に新しい聖観の影を作り、同を建てて安置しようとした。
比丘尼はまたこれを非難した。
寺では日新のところにあるの尼の姿で僧ではないので聖観ではないと言った。
いろいろあって比丘尼の負けにはならなかったが、寺の総意であるのでそれを鑑みこの通り申し付ける。
ある人は聖観は尼だと言う。
今の釈迦堂に安置するおそそはその影である。
中世からびんづると言って聖観の影とは知らなかった。
日新のところにあるのは二代目の比丘尼の影であると。
それならば比丘尼も間違っており、僧も知らなかったので尼を僧としたのだと。
大笑いである。