名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

年をとるとお尻の筋肉は緩みます

元禄8年6月19日。
申半時(午後4時)に文左衛門は渡辺八郎兵衛と堀川へ4ツ手(網)を持って出かける。
4ツ手は興津安右のものであった。
先頃、真福寺宝生院を寺社奉行へ呼び、今までは真福寺は天王坊の本寺であったが、以後は天王坊には本寺を置かないと。
前々は真福寺より直に天王坊へ住職を送っていたが、これもやめると。
宝生院は不機嫌となり、退出するときひとつ屁をこく。
寺社奉行も椽が鳴ったのかと思う。
また杉戸の側でふたつ屁を大きくこく。
門から10町(1町は約109メートル)ばかり行くが、また戻り、10人衆林弥太助を呼び出して話し始めた。
このような時のばかげた振る舞い、かねてからの持病といえども、何となくお上の命令をないがしろにしたようで許されることではない。
すぐに立ち退くと言うのを弥太介はまずはなだめて落ち着かせた。
寺社奉行からも手紙を遣わし、持病ならば仕方がない、急いで寺を出ないようにと。このため、隠居の願いを出す。
近頃、御馬廻組へはもよりから伝え、小頭のところへ呼び寄せて言い渡す。
近頃、世間ではいいかげんになり、相談があるとか稽古だとか言っては集まっているようである。
こちらの組ではそのようなことはないようだがけれど、ますます気を引き締めるように。
稲生半右衛門召仕2人が喧嘩で共に死んでしまう。
昨夜、尾崎伝兵衛僕が喧嘩をした。
以前、鑓持は金を貯めて、それを馬屋の者に貸していた。
近頃、また貸してほしいと言い出す。
鑓持が言うには、前の借金を返してからまた貸してほしいと言うべきだと言い争いになったと云々。
他の中間が鑓持に油断してはいけない言った。
あの男はお前を闇討ちにしようとしているので用心のため内緒で知らせたと。
鑓持はすぐに剃刀砥で信高の脇差に寝刃(切れ味をよくするために付けた傷)をつけた。
夜、馬屋の者・添口(密告)の者の二人を切り殺し自害する。