2022-10-08 当時の火元の責任はどうだったのだろう 鸚鵡籠中記 元禄5年9月17日。文左衛門は若宮へ行き、操りを見物する。能の演目は兼平。中入り後茶店で休憩していると、未刻(午後1時)に東方で火事だと騒ぎ始める。帰ると火はおさまっていた。清水の側の禅宗久遠寺が焼失する。隣の庄屋から出火したと。この時、風がずっと吹いていたが、離れ屋だったので類焼はしなかった。火元は中村又蔵百姓理助という者であった。