元禄7年9月20日。
文左衛門は先日田村弥四郎の紹介で1分で買った投網を持って地蔵池(地蔵ヶ池、勝川)へ出かける。
寒さのため魚は泥の中に潜んでおり、わずか10ばかりの鮠を捕って帰る。
未半時(午後2時)、曇り、西風が強く吹く。
通り雨のの後、晴れる。
津嶋の訴えが決着する。
この度の御朱印什物などの御改めに際して、津嶋の僧実相院という隠居坊主が御朱印ひとつを持っていたが、この取次を氷室兵部に頼んだ。
しかし、この御朱印わけがあって昨年も出てきておらず、氷室兵部は取り次がなかった。
このため実相院は訴状を御目付に提出した。
兵部はこれに対する返答書で是非を明らかにした。
しかし坊主は諦めず、日々兵部の行いをいちいち述べ続けた。
御詮議の上、実相院は5ヶ国(あるいは7ヶ国)追放となる。
兵部は日頃から派手な生活をおくり、わがままなことも多かった。
第1は、海津伝右衛門という軍者を自分の家老にし、昨年社家(神職の家柄)にしていた。
今は野々村長太夫と名乗る津嶋の社家は特に審査が厳しく、侍以外にはなれなかった。しかし、兵部は権威に任せて社家にしていた。
このことが御耳に入り、津嶋を去って蟄居するよう言い渡された。
諸道具は下されたが、借金が280両あったためこれを返すために全て差し押さえられた。
兄の吉見宮内はしばらく遠慮し引きこもる。