名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

ベテラン刑事のような誘導尋問

貞享4年6月4日。
今井左次右衛門が加藤市右衛門のところに見回りに来るが、甥の坊主が見当たらず。
話し聞いたところでは、近頃妙興寺村入口小橋の際にござを敷き、黙り込んでいる者がいた。
百姓らが色々と問いかけるもどこから来たとも話さないので薬師堂に入れる。
中将様(綱誠)に書を遣わしたいと。
その文言には、知行6万石で犬山の城を拝領したい、名古屋の通所として下屋敷を拝領したい、それが無理ならば、帷子ひとつ・下帯1筋・扇子1本を貰いたいと。
封の上書は、中将様 丹羽大隅と云々。
これを国奉行へ送り、奉行らが読んでみる。
とにかくそのものに名乗らせるようにと言われる。
そのことを秘密にして、この地の代官安井八郎右衛門が承り、国奉行手代の中でも知恵者を使い、書付の趣を披露したところ、尤もなことと思われ望みの叶えると伝える。
しかし親類などがいなければ叶えられないと言うと、平岩太左衛門・同金右衛門は親類で、加藤市右衛門は伯父であり、御下屋敷近所にいると言うと云々。
市右衛門が言うには確かに私の甥であると。
しかし大騒ぎとなり、急に引き取れと言われても難しいと言う。
佐次右衛門は少しも苦しくないので早々に引き取るようにと言う。
ただし既に夜中なので、明日5日に引き取るようにと云々。
この乱心の坊主父は渡辺半蔵家来で市野辺伝七とのこと。
15石ばかりを取り、その後二の丸へ御賄に出ていた。
その後死んでしまう。
妹は母と共に市右衛門が雇い入れていた。
市右衛門は福田弥五右衛門と同様に敬公の時代からの五十人。
無筆の位なので役替りはせず、黒谷町の辺りに住んでいた。