安永7年(1778年)
4月。
4月2日より4日まで、日比津村定徳寺祖師500年遠忌法会が行われる。
2日、3日とも雨天で、4日は天気がよい。
8日、八事山で施餓鬼が行われる。
参詣の者が多く、山中通り抜けられないほどの人が集まると。
14日より5月4日まで、金塚町万福寺にて、信州塩崎白鳥山報恩寺親鸞聖人六十三歳の木像は本人作を開帳する。
2体の木像ならびに円光大師色形の尊像、九字名号石印、天竺(インド)の石を使って自ら彫った親鸞聖人本人作である。
これを紙に摺り、100文で売り出す。
その他、霊宝が数多くある。
また前日、当寺霊宝の品々は江州金ケ森宝舟山最初寺道西坊霊宝とともに同堂内で弘通する。
ただし、龍泉寺、八事山の開帳に参詣する者が多かったので当山への参詣は少なく、この度のように人が少なかったのは今まで覚えがないことである。
19日、早朝、熱田大宮司の座敷が焼ける。
同夜、9ツ(午前0時)頃、巾下上宿の御中間頭宮川平六屋敷より出火し、近辺の屋敷、町家ともに類焼する。
5月。
5月1日より7日まで、東寺町泰増寺で普度会法花回向が行われる。
4日、熱田へ日置より出す馬の塔の場ならしが行われ、日置の見物人が多い。
昼から白山の社に揃い、七面(妙善寺)の後、しろ(白山)八幡宮へ参り、それより橋へ向かい、下は無三度杁(いり)まで、神はかこ(水主)町まで行き、それより日置の町々を残らず夕方まで歩き行く。
5日、熱田、馬の塔が多く出る。
旗屋は本馬2ツ、川名村は1ツ、伊勝村は1ツ、その他俄馬が数多く出る。
日置の馬の塔人数1000人余り、長刀は600振り。
今年の馬の塔で旗屋・川名の馬は全て名古屋で長刀を借りたので借りつくしてしまい、津嶋あたりまで探すと、さて、日置の馬の塔は昔熱田のある馬と喧嘩し、宮の馬に落度があったのか雲雀籠のだし(標具)を日置に渡し、以後これをだしにすると言ったので、馬を出す度ごとにこれを先馬とする。
この喧嘩の際に浪人者が見物していて日置の肩を持ったので、先馬の後に深編笠、ぶつさき(打裂)羽織、立派に出立(いでたち)の浪人姿となって付き添う、また後に飛道具を持ち、宮の馬のだしを取り返そうとすることが度々あったのでその用心に願い出すと。
後より棒突き10人ばかり、熱田より送り出し、下役人が後より付き添う。
ただし、先年熱田の馬にとても落度があると。
3人殺されながらも謝罪する。
およそ300年ほど昔のことだと。
そのため日置の馬に無礼がないようにと前日に町々へ触が廻る。
また日置の馬を牽く前には、他の馬が出ることはできないので日置の馬の塔は早朝に来て巳の刻(午前9時)には戻り、高倉の地内もたい場(控え場所?)で馬が溢れる。
ところがこの高倉を出たところ、極楽屋の南へ俄馬が上からやって来たところ、馬が跳ねて日置の警固の中へ駆け込み、2、3人が溝に落ち、長刀にも疵がつき、折れてしまったものもでる。
熱田の者たちはいろいろ詫びたけれど、思惑があって行ったようにも見え、その上奉行所よりの触はなかったと大勢で取り囲み、もうどうもならないと思われたところへ熱田の役人が現れ、これを預かる。
沢の中で宮の者が謝ると。
巾下上宿の放火は召し捕られ、牢に入る。
6日、熱田の者が日置へ謝りに来る。
大古瀬とも石橋あたりとも。
万福寺の宝物弘通が8日まで延長される。
7日、名古屋町々の永栄講の者たちが熱田へ灯明を奉納する。
18日、名古屋馬の塔は近年覚えがないほど馬の数が多い。
裏町あたりはとても見事である。
踊り囃子などない馬は少なく、とくにかげ廻し(陰廻し)雛祭などとても見事である。
この夜、裏町馬の塔は終わりで、惣踊りを行い、笛・太鼓・三味線、尺八まで本式に揃えて華麗である。
余りの賑わいに後で困らぬよう庄屋より差し止める。
19日、馬宿へ礼馬(馬を人に変えて町民が町を練り歩くこと)が多くある。
雨天。
20日、三尊仏の趣向を凝らした馬の塔が出る。
その他にも数々ある。
この馬の塔は裏町あたりということだが、場所はわからず。
町はずれの片隅に分相応の暮らしをする3人の子持ちの百姓がいたが、この年は麦の出来が遅く、14、5日の忙しい真っ最中に近辺の若者全てが馬の塔に出かけてしまう。ここの息子も出かけるように言われるが、忙しいのでこの度は勘弁してほしいと言うと、とにかく出かけるようにと連れだって大勢でやって来たので、申し訳ないがこういう事情だと3度詫びを入れて送り返す。
若者20人ばかりが揃ってまたこの家にやって来る。
家の者はこれを見て、以前断って息子を出さなかったのでその仕返しに暴れるかもしれないと、亭主・息子は手をついて伏せ、女房は涙を流していると、若者は入って来て、思いがけず手をついて言うには、麦で忙しいのはもっともなことである。
若者が集まっていろいろ話し合ったところ、ここの3人が出れないのは気の毒なので、皆で申し合わせてきたので麦を穂から外すと言いながら銘々が用意した道具を持ち出し、直ぐに俵にしてこれでどうだと言う。
亭主はこれなら息子を出かけることができる、皆の働きで麦が残らず俵にすることができて大変ありがたいと家の者は大喜びする。
息子が出かける際には若者にこの礼だと酒や魚を贈ると、以前もこのような時に仕返しにいろいろと悪さをされ、縁を切るようなこと数多くあったが、それにひきかえ麦を俵できて差し支えなく息子が出かけることができ、酒を振る舞い、互いに礼を言い合い、互いに喜びあったのは珍しく、素晴らしいことである。
20日頃から、世間では正月を祝う。
そのわけは、若狭国の山中に急に1つの洞が現れたので、領主が死罪の罪人をこの洞に入れて吟味していたところ、中に老僧がいてここは星下というところで人間の来るところではないと、その時罪人が洞に入った子細を語り、罪を見極めてもらえば命が助かるので見極めたという証拠を頂きたいと願い出る。
僧が言うには、何も証拠で遣わすものはない、しかし、今年から傷寒(腸チフスの類)が大流行するはずであるので、正月の儀式を行い、屠蘇を給わればこの難を逃れることができるので帰って人々に話すようにと言う。
罪人はこの話をしたので触が廻り、国中残らずで正月の祝いをする。
その後三ケ津(大坂・京・江戸)を始め諸国にこの話が広まり、当地では三の丸始め町々残らず餅を舂き、雑煮・蓬莱・屠蘇、その他思い思いの方法で正月の祝い、門に鰯・大田作り・ひら木(柊)などを刺し、豆を投げる。
どこでも同じようなものである。
晦日を年の暮れとし、来たる1日を元旦と祝う家が多くある。
晦日には町々へ厄払いがやって来る。
枇杷島あたりでとても厄払いが多い。
川崎音頭(伊勢音頭)売りと行き違いに歩き行き、珍しいことである。
裏町辻々、天王社頭は門松を本式に飾り、鏡餅を供える。
熱田家々は残らず門松に本当の正月よりたくさん松飾りをする。
一の鳥居より南は見事であると。
町々の八百屋などは時ならぬ裏白・柏・勝栗など種々の飾り物で、思いもやらぬ金儲けになる。
より(ママ)貝売りもやって来る。
6月。
6月1日、福俵大黒舞・江戸万歳がやって来る。
どこでも雑煮にぬき菜(間引き菜)を入れる。
また、鏡餅は万屋などの店で売る。
殿様は内緒で三が日の御祝をしたとの噂がある。
房姫様(八世宗睦娘)が京都へ上られ、木曽路を通る。
裏町あたりの天王祭では掛行灯にいろいろな作り物がある。
津嶋へ参詣する江戸者は例年より少ない。
百姓が多かったので今年の耕作が遅れたためと噂する。
同所御葭を牛立村の者が大勢で取りに来たところ、狼藉者だと役人が手錠を打つと、御葭は牛立で祭る。
当年の若宮祭は黒舟車に子ども、高砂・舟弁慶を入れ、帷子装束は見事に出来上がり、11日に夜調べが行われ、見物人が多い。
18日夜、押切の若者が凝った餅舂を行い、賑わう。
19日より大乗院境内にて晴天十日両関大相撲の興行が行われ、名高き大男がたくさんやって来る。
鳴沢源右衛門など。
戸部天王御葭を熱田東脇の者と迎えに行き、西浦に祭る予定である。
砂成御葭は今村にて祭る。
20日、清須の花火は今年珍しい趣向の新作が多いと。
評判になり、早朝より見物に行く者がたくさんいる。
昼は色々な旗を上げ、その他からくりもたくさん行われる。
夕方には清須に3倍ほどの人が集まり、この日、芝居・相撲には人は集まらず少しだけである。
夜の賑わいでは、川に落ちる者、あるいは畑の肥え甕に落ちる者がたくさんおり、また、からくりに火を移し損なって体に火がかかる、その他見物人に怪我人も多い。
夜が更けて清須より巾下あたりまでの煮売屋、その他食べ物の類は残らず売り切れる。
何とか茶一服を4、5人で分け合って呑むと。
花火は鯉の瀧登り、かげ廻し、金輪きりなどとりわけ見事で、その他新しいからくりも多く、近年にない大賑わいである。
21日、日置旅籠町にて野崎彦右衛門が召仕の女を手討ちにする。
この女、元は魚の棚煮売お市後家という者だと。
古渡(ふるわたり)釈迦堂で火事がある。
7月。
7月9日・10日、源昭様(徳川治興)三回忌が行われ、全て昨年の通りで両日相撲は中止となる。
13日、百人組屋敷で火事があり、1軒が焼ける。
14日より、古渡稲荷前に舞台を設け、踊りが行われ、子どもの踊り子男女50人余りで見物人が多く、また海老屋町でも行われる。
材木町あたりも計画するが、行うことはできず。
裏町、その他あちこちで盆の間しょんがえ踊りが数々行われる。
巾下・六句町は梵天のようなぞめき(騒めき)をすると。
江川へ身を投げた女が死ねずに流されていたところ、青物売りが通りかかり、引き上げて助けるが、この女は在所へ帰り、また首をくくって死んでしまう。
在所は美濃のあたりと。
17日より閏7月17日まで、柳薬師を夜開帳する。
愛知郡稲葉地村出郷東宿にて、16日夜、若者たちが金持ちの井戸へ汚物を入れ、米なども落とし込むなど様々な悪事を行い、地頭より役所へ訴え、面倒なことになると。
去年、萱屋町で放火した者を召し捕らえ牢に入れる。
この者は石神堂あたりの組屋敷の門番だと。
萱屋町で火を付け、銭2貫500文ばかりを盗み出し、にんじん畑(尾張家の薬園)へ持って行って隠して置き、またそこへ取りに行くも人目が多くて取り出せず、当3月の武平町、当月の百人組の火災も自分が全て火を付けたと白状し、百人組で盗んだ縮緬縁の蚊帳を鉄砲塚の永楽屋へ質に入れたところ、あまりに身分不相応な品だったのでその犯行が露見する。
20日、夜明け頃、旅籠町の娘の家の屋根が燃え出したのを隣の女が見つけ、あまりに慌てて火事だと叫ばずにあれあれと指をさす、それを向かいの女が見つけて火事だと叫ぶ。
大勢が駆けつけ、大事には至らず。
翌日、3人の女が役所へ呼ばれ、ありのままに話したところ、最初に見つけて啞然として叫ばなかった者に銭200文の褒美があると。
22日、大雨で雷もかなり激しい。
牛立村へ落ちると。
武平町あたりで犬が托鉢坊主に咬みつく。
26日、また御園町下にて犬が近所の使いの女に咬みつき、1人は手と腹を咬みつかれ、2人には怪我はなし。
このような話があちこちで聞かれ、28日、犬殺しがやって来て当町三ツ蔵角にて股をひと槍突いたところ、東側の門へ駆け込んだのを夕方まで探すが見つからず、近所の屋敷から町奉行へ知らせたので犬殺しがやって来る。
そのため屋敷へも這い入っていないか調べる。
御園下、堀端にて見つけて突くが、四軒家に逃げ込み、また行方がわからなくなる。
東側の屋敷を集中して探すと。
その後、ある人の椽の下にいたので、竹の先を二股に切って火で焦がして突くも、竹がゆがんで少しも傷つけられず、駆けだしたところを横に払うも2、3間(1間は約1、8メートル)飛んで行方がわからなくなる。
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