名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

開帳ってやっぱり寄付集めだもんなあ

安永7年(1778年)。
1月。
1月1日、朝少し曇り、昼前から晴天となる。

22日、御添地(御下屋敷の東側)手代伊藤氏母がこの日88歳の誕生日と。
米(よね)の祝いの札を書く。
この人は88歳まで一門親類の中でも病気知らず。
古今稀な米札と。

23日、昼から急に激しい風が吹いて大雨となり、しばらくすると止む。
夕方まで風が強く、この時、熱田大瀬古の船乗りが伊勢参りの客を乗せて桑名より戻る途中で難破し、7人が死んでしまう。
知多へ漂着した者は親切な人のところで介抱され、何とか命が助かって帰って来た者もある。
海に沈んだ者は水深が深くて死骸も見つからなかったと。
50余りの者が1人、それ以外は全員年若い者ばかりだと。
年配の者は桑名へ戻った方がよいとその準備をし、空模様も怪しかったのでとにかく出航を止めたが聞き入れず、この災難に出会うと。
陸でも風と雨が激しかった。

24日より5月5日まで、龍泉寺馬頭観音を開帳する。

同日より同日まで、知多郡木田村両尾山観福寺本尊十一面観音を開帳する。
行基の作である。

門前町極楽寺にて、部田(へた)祐福寺小三尊ならびに霊宝を開帳するはずのところ、祐福寺住職が亡くなったので中止となる。

去年の冬より町の子どもの遊びで桶のたが(箍)を廻すのが大流行する。
後には周りの村までもこの遊びが流行する。
61年前、これが流行り、その年は大豊作だったと。
また37年ごとに流行るとも。
いずれにしても吉事だと噂する。
狂歌 読み人知らず「流行くりや親もおけともゑいいわずに たがはじめてぞ廻しそめけん」

2月。
2月1日、七ツ寺三十三所観音堂へ東門前町女人講中が瓦を寄進し、車で引いて小幟を立ててやって来て賑わう。
その他この堂にあちこちより寄進が毎日ある。

3月。
3月1日より4月20日まで、八事山(やごとさん)興正寺普門堂正観音を開帳、ならびに霊宝を弘通する。
東山女人禁制の場所へもこの開帳中は女人の参詣を許可する。
珍しいことと当地は言うに及ばず、遠近他国より三方こうし(三方格子か?駕籠の一種、蓬左見聞雑著では三宝荒神)にて参る者もあり、駕籠も多く見かける。
毎日、道筋、山中に人の隙間はなし。

開帳の様子、参詣の次第。
番小屋、ここで不浄除の守を女人の参詣に与える。気持次第で1文、2文を渡す。女人禁制の地を残らず拝み、西へ出るところで請ける、納所があり、西山からの帰りはここに納める。
東山本堂。霊宝。一切経蔵。吐月峰。鎮守八幡宮。不□場。弘法大師。摂待。経木塚。 呑悔峰、この峰より熱田の沖を見る棚を拵えて人に見せる。本尊大日如来。天瑞上人石牌。女人遙拝所。東山の門口、参詣には守を出し、帰りに返し納める。女人禁制所、虚空蔵菩薩を安置する、天瑞上人作、土砂を撒く。本堂。本尊阿弥陀仏、慈覚大師直作、 この中に天瑞上人の木像を置く。霊宝、仏像古筆、御筆の懸物、御寄附の器物、名画掛物、当麻の曼荼羅、しめて102幅、外陣より椽側まで、古仏多し。普門品堂、正観音 慈覚大師直作、50年来御進行の尊像。脇立、三十三所観音、天瑞上人作。
西山、玄関にて霊宝場切手を出す。この霊宝の内陣へは刀・脇差は一切差すことができず。当住諦認比丘上人十念を受ける。12文。霊宝、御寄附の品、仏像掛物、古仏古筆など多し。叡山珊瑚珠、当山開山天瑞上人、二十五条竹布袈裟、これは天竺の布を編んだもの。同子如意鉢、木像。瑞龍院殿御筆右(ママ)経。その他、御直筆の画多し。開山より四世まで、代々上人絵像。五大尊その他画像。御寄附仏像はなはだ多し。普賢菩薩、常の経蔵に安置なり。仏絵多し。国君黄門(九世宗睦)御寄附の大般若経、黒塗りの箱に入り、上には葵御紋が付く。御寄附釈迦如来説法、華厳会上人、祝相少思恭の筆。経蔵、一器、参詣の人が自分で廻す。弘法大師堂。御寄附の不動尊。正観音。六字の名号。開山の筆。高野山土砂を与える。虚空蔵堂。本堂。霊宝。鎮守天照大神宮。普門堂、他山がここにて観音御影を授ける、ならびに雷除守を授ける。門前に茶屋・煮売屋など数多くある。山中では物を担いで運ぶのを禁じる。棒を突き、手に提げて運び入れる。繁盛のため駿河町より外れまでの家は煮売茶屋が多い。火縄を吊って商売する。松原も商人・茶屋が多く、川名村に茶店が多くある。八事山入口大池にも茶屋が多く、門まで続く。大賑わいである。

2日、殿様(宗睦)が名古屋を発ち、東海道を行く。

春日井郡東杉心入寺明星見の釈迦を開帳、ならびに霊宝子安の鏡があるが、これは堂へは出さず、12文出すと部屋に入れて拝ませる。

3日より、鍋屋町裏善光寺一光三尊仏を開帳し、毎日説法が行われる。
これは本田善光の作である。

笠寺本堂観音を開帳する。

丹羽郡継鹿尾山(つがのおさん)千手観音を開帳し、繁盛すると。

この頃、笠寺開帳は八事山より山伝いにやって来る参詣が多く、繁盛すると。

新出来町大龍寺では永らく五百羅漢の建立を計画しており、近頃次々寄進がある。
大久保見の仏師が請け負い、寄進の人々はここへ頼む。
本体は金2両。
両僧が奉加(寄進)に廻る。

川名村般若台石塔が出来上がる。
また、枇杷島法花堂の石が堀切中嶋に立つ。

古井(こい)村は晴天十日の勧進相撲の興行が行われる。
その頃ちょうど八事山が賑わっており、とりわけ人が多く集まる。

去年江戸へ下った蘇森長湫倅子桂は江戸町中を引き廻し、当地土器野で獄門となる。
ただし、公儀の罪人であったので江戸表より獄門台を持って来て、罪状の高札を街道に立て、いつもの御仕置場より手前の方、畑の中に小屋を建て、江戸表よりの役人はぶつさき(打裂)羽織を着て高提灯・幕を張り、夜番をする。
かなりの見物人となる。
高札の写しは別紙にあり。
この子桂は18歳である。
7・8・9日の3日間首をさらし、9日にここに埋めると。
また一説には、江戸へ戻すはずのところ、遠路のため濃州笠松へ持って行き、ここに埋めるとも。
公儀の罪人のため幕府の領地へ持って行って埋めるはずだと噂する。
誠に前代未聞のことで、尾張始まって以来の大珍事である。
河村又太郎の件は落着し、当地へ戻って何の咎めもなし。

11日より3日の間、東寺町妙蓮寺祖師500年忌法会が執り行われる。
11日、法花讖(纎)法(罪を懺悔し、減罪を願う法会)が行われる。
12日、一部の経が行われる。
13日、音楽が行われ、法会中は毎日説法が行われる。

13日より4月18日まで、愛知郡植田村金久寺観音を開帳する。
観音は伝教大師の作である。
当寺は東よりの八事への参道筋のため参詣の者が多く集まる。

同郡中根村観音寺観音を開帳する。
八事より笠寺への道筋である。
川名村護邦山太平寺薬師を開帳し、寺には松の砂物(立花の様式)があり、3間(1間は約1、8メートル)ほどの作り物(飾り物)などのように見える。
下げ札に椙原氏門弟と書いてある。
八事参詣の者の立ち寄り、見物が多い。
北の薮垣を切り開き、本道への出入口を開けて往来の人を入れる。
寺の門は南にあり、これを出て村の中を通り、本道の神明前より少し東へ出る。

15日より4月5日まで、鍋屋町下源頂山情妙寺石像の日蓮上人霊像、火難逃れの鬼子母神木像の入仏供養、開帳、万灯供、音楽、説法が行われる。
当寺霊宝、中天竺(インド)瀧見観音生御影を開帳する。
この尊像は元和の頃、茶屋新六郎正親が唐へ渡った際、吹き流されて交趾国(今のベトナム北部)に到着し、安甫(南)(ベトナム)国王に種々の品を献上した時に安甫(南)王より伝えられ、新六が年老いたので当寺へ納め、什物(宝物)となる。
中天竺において瀧見生身の尊体をそのまま写しとった霊仏である。
同堂に茶屋が交趾国へ渡った際の国王対面の場ならびに渡海の船の図、交趾国山川の様子をことごとく記した絵図の巻物1軸があり、道のりまで記してある。
日蓮上人の石像は源敬公(初代義直)御信仰の尊像のため山号を源敬山と名付けられたところ、その後瑞龍院様(二世光友)が今の山号を付けられると、山号御筆の懸物2幅、その他宗祖の真筆題名数多く、この度の霊宝弘通に出る。
参詣の者が多く集まる。

19日、申の下刻(午後4時半)に、武平町高橋氏屋敷より出火し、この時西北の風が強く、火の粉が東へ飛び、東新町牧野氏屋敷へ火の粉が降りかかり焼失する。
この頃、火事の噂が多い。

28日、井戸田村百姓の家が火事になる。
同日、有松絞屋の土蔵が焼ける。
高名な者で、かなり高価なものが焼失すると。

(p67~p70)