名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

やっぱり三都に次ぐ芸どころ

安永6年(1777年)。
8月。
8月5日より25日まで、小桜町円通寺霊宝を弘通する。

同4日より25日まで、忠重山教授寺宝物を弘通する。

大須門前で諸国名石集という見世物を始める。
いろいろな珍石を見せる。
値段は5文ずつ。
雲根志という書物を売る。
江戸の者だと。
惣髪(月代を剃らず髪を後ろで結んだ髪型)の人である。

近年、名古屋の町々で饂飩屋に若い女を数多く抱え、派手な前垂をさせて出女(客引き)同様に仕立て、酒の相手をさせたので昼夜を問わず遊びに客がたくさんやって来る。
この類の茶屋は上町あたりにも次第に出来て流行る。
茶屋の中に若い女を抱えおくことは固く禁止するとの触がある。
これに背いた者は所払いとなり、町代・与頭などまで咎めがある。
先年も度々触れが廻るが、特にこの度は厳しい触だと。
茶屋の女を全て辞めさせ、50あまりの女に置き換えると。

この頃、町々で踊りが大流行し、毎夜大勢が手拭いで頭を包み、普段着のまま踊り歩き、武士小路へもやって来る。
門に出て見物すると、ますます面白く踊る。
歌に「今とし世がよて 仏様の御ざつて 町屋在郷は丸抜じや しょんがへ どんしやめどんしやめ」
その他当時の流行歌を歌い、また流行りごとを歌にする。
そのため新しい歌が多い。
町々子どもの遊びにもこの真似をする。
また、裏町あたりより米野近所まで2、3度踊り歩くと。
後に止められると。

20日、少々雨が降り、未の刻(午後1時)、俄に雨・風が激しくなり、雷が鳴る。
中に1つ大きなものがあり、春日井小幡あたりに落ちると。

春日井郡朝日村真福寺薬師を開帳する。

愛知郡烏森の祭に若者が獅子舞を出す趣向を庄屋が聞きつけて止めたのを、若者どもが腹を立て、この祭礼の日に村の御湯立(湯を振りかけて無病息災などを祈願する神事)を見に出かけた者は縁を切ると申し合わせ、当日急に馬の塔を野田の開帳に出すと。
その警固にあの三尊仏ならびに曲搗餅屋をを作り、趣向が面白いと。

9月。
9月1日、十一番割・十六番割御葭へ荒子村より馬の塔・獅子舞を出す。
また、中嶋新田より裸馬を出す。
この夜、古渡の若者が狂言を企て、ここへ持ち出して舞台を用意し、いろいろな芸を行う。
大賑わいと。

4日、御国奉行より触状が出る。
村々の百姓は地頭より免合(めんあい、税率)を申し付けても承諾せず、年貢などおろそかにし、地頭を軽んじ、わがままを言った上で税を減らす者どももあると聞こえているが全く不埒である。
この者たちにしばしば言いつけられていることではあるが、今後このような者があると聞き及んだ場合は吟味の上、その者はもちろん村役人まできつく咎めを申し付けられるので、ますます堅く慎み、年貢などは滞りなく納め、地頭の申し付けには違背せぬように。
この趣堅く守るように。
酉8月、また1通。
あらまし、給知百姓態度を慎むことは今般別紙の通り御国奉行より触れたところである。
とりわけ御家中の輩も知行所百姓ども年貢取立方は態度よく取り計らうのはもちろん、作柄不相応の高い税率を申し付け、あるいは不当な言いがかりを付け、その他善悪の吟味を詳しく行わずに村方追放など申し付ける輩もあると聞き及んでいる、これはあってはならないことであるので税率は作柄相応に申し付け、その他不当なことがないよう慈しむことを心がけ、態度宜しく取り計らうよう、
別紙の書付の趣を触れるようにと御老中が言いつけられたので、この書付ならびに給知の村々へ御国奉行より触れられた趣の写しの2通を送るものである。
9月4日。
これは珍しい触であるので抜き書きで写しておく。

先月から道を直していると触れが廻り、町中で土を買い入れ、土地を整える。
名古屋中で必要な土は8000両ほどだと。
川名あたりから車で引いて来る。
土は今度高値となり、土を運ぶ者は大分利益を得ると。
道を直す際に御先手衆が出来町あたりで少々事故を起こしたとのことで、この触れが廻ると。
また、見分があったとの噂もある。

7日、酉の刻(午後5時)頃、綿屋町平岩喜内屋敷長屋で出火する。

10日、西鍛冶町福泉寺境内戸隠大明神の神事がこの年から初めて行われる。
また、広小路神明神事の懸行灯屋形が見事に出来上がる。

藩主が岐阜へ出向かれ、鵜飼を御覧になる。
これは21日のこと。
供応は豪華である。
名古屋の魚がとても高値になる。

22日、23日、24日、御堂照遠寺祖師御宝前ならびに堂内丸柱が全て金になったので供養が行われる。

あちこちで痢疾、熱病が大流行し、人が多く死んでしまう。
海東あたりではこの病の厄除けのために産神で湯立が行われる。
ただし、大根・人参はとても高値である。

10月。
10月6日、夜、大津町河村又太郎、同息庄九郎、安西文調、同子息、京町蘇森長秋、伝馬町福沢屋半兵衛、この者たち疑いがあり、召し捕らえ、それぞれ牢に入れ置く。
町方同心・足軽、その他下役の者が屋敷へ出かける。
誠に珍しいことである。
捕え手の者が大勢京町筋、大津町あたりの両方の屋敷で待ち合わせ、6ツ(午前6時)頃、門を叩くと女が出てきて、自分は本屋(母屋)より用事があってやって来たと言う。
河村又太郎は伝馬町福沢屋へ行っていると女が言うので、直ちに福沢屋へ駆けつけて酒を呑んでいるところを召し捕る。
近所の医者の乗り物を借りて役所へ行くと。
一説では大勢の捕り手を投げつけ、踏みつけるなどいろいろしでかした噂もあるが、全く根拠もないものである。
河村は揚屋に入れ置かれ、同息は下牢に入る。
これは未だに御目見でないからと。
蘇森長秋、同息子桂、安西文調、同息□仙も皆下牢に入る。
ただし、文調は永らく重い病気を煩っていると。
この捕え手の者は、40人ずつ家へ向かうと。
河村氏宅は仲間が番をする。
この者たちは寄合である。
町医はその町内の亭主が番をするが、一同迷惑だと役所へ願い出たので内々に手代どもが代わって番をする。
福沢屋は手錠し、番をつける。
この度の処罰の次第はおって別紙に記す。
川名口・志水口・熱田口・枇杷島口何れも御先手衆が警固し、弓・鉄砲を厳しく飾り立て、他国から一味の仲間が入りこまないように行き先の町名を尋ね、持参の風呂敷包などを開けて吟味した上で通す。
特に侍には特に厳しく尋ね、吟味すると。
枇杷島口は橋に揚張を灯し、津嶋の祭礼のようである。
無三度の杁では入江の者が番をする。
江戸の状は三州池鯉鮒で止めて吟味をする。
封を開けて中を改め、御用の他は通さず。
9日までは出口を警固して止める。

10日、長秋の他は許された、番を付けてその上で江戸表へ板乗物か桶がわ(樋側駕籠)に乗せて行くなどといろいろな噂がある。
このため今年の亥の祝いが延期との触れが廻る。
亥の日が7日であったが延期される。
その時、夜中城内に一般の人を入れないために。

江戸表へ蘇森父子・安西文調・河村復太郎各々が板乗物で行く。

16日、若宮の芝居へある屋敷の中間が見物に行き、木戸口にて口論となって木戸番に殴られたので、18日に中間仲間40人ほどと徒党を組んで芝居看板・表側木戸口などを粉々にしたので早々に召し捕らえられて牢に入れる。
この日見物の輩が垣根越しに性高院へ逃げ出して大騒動となる。
この一件でいろいろな噂があるがここでは略す。
いずれにしても恨みがあっての狼藉である。
この芝居が台無しになったのは至って面倒だと噂する。
京・大坂・江戸ではよくあることだが、府下ではこれまでないことなので特に大騒ぎとなる。

27日、夕暮れ頃、町々でかなり霧が立ち込め半町(1町は約100メートル)先も見えないぐらいになる。
この夜4ツ(午後10時)頃、激しい雷で雨が降る。
この2、3日前の地震も大きなものである。

11月。
11月、町々へ真徳丸という薬を売りにやって来る。
笈(竹の箱)に「四天王寺 聖徳太子 真徳丸 慈悲万行御薬 摂州四天王寺門前石鳥居前 山本求馬門人 西山哥柳」と書きつけて売り歩く。
四天王寺の由来は昔俊徳丸の夢の中で聖徳太子が告げた調合とかで、巻物を読んで辻々で売る。
また、痛むところがある者にはその痛むところに経文のようなものを書き、墨を塗る。
家に戻って清潔な紙で拭うようにと言う。
朝、井戸で最初に汲んだ水を飲むようにと。

近頃、名古屋町々の秋葉の講の者たちが石の鳥居を奉納する。
東の山家□で石を買い求めて車で引いてきたところ、勝川までやって来て日が暮れたのでここで一泊し、あくる日川を越えた時、大きな石だったので少々怪我人が出る。
そこからようやく大曽根下まで引っ張ってきてここで一泊し、次の日に本町筋を引き、若宮前にて一泊し、翌11日、熱田まで引っ張ってくると。
この鳥居には、地車1ツ、車1ツに揮(楫)取5人ずつが半纏を揃え、車に竹を立て、注連(しめ縄)を張り、幟を立て、引く人は1両に20人あまり。
いずれも見事ないで立ちで、納屋あたり、裏町あたりの者は各手拭いに鳥居を赤く染め、綱を引くと。
後から秋葉山御宝前への供え物、神酒瓶子その他いろいろな捧げものを見事に飾った1台、また台には山盛りの十二銅(12文の賽銭)を3台に積み、木遣り歌で騒ぎながらやって来る。
多くの見物人が集まる。
茶屋町あたりよりこの時大乗院で興行していた相撲取りどもが裸に見事な褌をして熱田あたりまで引くと、これは珍しいことである。
この鳥居は浜松のあたりで建てるので、名古屋の講頭が東向にいたのでここに集まり、引いて来ると。

11日より大須門前に曲馬の名人がやって来る。
表看板に大曲馬と書き出し、衣装なども新調してとても見事で、初日から大入りとなる。
特に報恩講と重なったのでさらに大入りとなり、木戸口1ヶ所では見物人が入れないので小屋の板囲いの中ほどで2、3枚板を取り外し、ここから入れない見物人を入れる。
木戸と入口が2ツになるが、押し合ってすぐには入れず、桟敷一面人だらけで珍しいほどの繁盛である。
太夫の名前。
中村政五郎、去年もここへやって来て評判となったのでその御礼にやって来たと表口上書にある。
大坂 中村直蔵。
京 山本岩蔵。
加州 山田栄蔵。
加州 中村政五郎。
頭取 同州 山本安五郎。
口上 加州 囃子万右衛門。
表看板、この如し。
曲馬はそれなりの出来である。
しかし、山本安五郎は三番叟を演じる。
これも前々から演じているが、この度は笛・鼓を楽屋の中から奏で、馬に乱拍子を踏ませ、大夫は脇にいて扇を振り見せる。
馬はこの扇に従い、後足を揃え、前足を上げ、七五三を踏む。

近頃、福林粉(福輪糖のこと)という菓子を売り歩く。
歌を歌い「皆さん御存、おらんだのふくりんとう」と言う。
背中に〇に福、この如く。
たいみんこう(大民糖?)の類である。
能書きが添えてあり、小児五疳の薬と書いてある。
薬売りのように見える。
江戸で流行ると。

以前江戸へ行った蘇森長湫が8日、安西文調が9日に病死する。
河村又太郎には何の処分なし。

29日、夕方より大雪が降り、晦日の朝には1尺(1尺は約30センチ)8寸(1寸は約3センチ)ばかり積もる。
多くの木が大分折れる。
御土居の松、その他あちこちで折れて被害がある。

12月。
12月26日、夜4ツ(午後10時)頃、萱屋町上代官町と平田町の間の東側裏屋より出火し、表町片側、上は平田町の少し下まで、下は代官町両側が焼失する。
萱屋町は九十軒町のことか。
その中で味噌佐の屋の1軒だけが不思議と残る。
折から北西の風が強く、四ノ宮氏屋敷へ燃え移り、ことごとく焼失する。
それより萱屋町下へ燃え出し、観音院の少し上まで片側が焼ける。
独り者中間3軒が並んでいた。
この夜3人で申し合わせて正月の調物(貢物)のため大曽根あたりへ出かけた後から出火する。
それぞれ独り者のためどこから火が出たかわからずと。

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