安永6年(1777年)。
7月。
当春、勢州一身田にて下野国高田山専修寺一光三尊仏、霊宝仏を開帳し、繁盛すると。
この三尊仏は信州善光寺如来の一体分身、親鸞聖人53歳の時夢に現れ、感得する。
この如来は33年目に御鍵改め(収蔵庫などの錠検査?)のため一身田で弘通する。
下野への帰りには府下上畠裏信行院において15日より8月14日まで開帳されることになっており、木戸の信行院の門、築地などの工事を終え、円頓寺筋南側地子の裏門の傍らまで土地を空け、一身田役僧の供回りの休憩所にする。
14日夕暮れ、当寺に到着して賑わう。
一身田での賑わいもあり、様々な芝居、見世物が多く出ると。
その中には鬼女の力持が開帳にあわせて府下へやって来ており、大須の門前先へ小屋をかけて15日より始める。
曲持(曲に合わせて餅などを頭上に持ち上げる曲芸)だと。
15日卯の刻(午前5時)より開帳されるため、参詣の輩は7ツ(午前4時)前から門前で隙間なく門が開くのを待ってびっしりと詰めかけており、あまりに人数に怪我でもあってはいけないと門を開けると、我先にと押し合いへし合い、どっと一度に数多くの参詣人が庭にあふれたので、目明しや夜明けから詰めていた同行衆はこれを見て、なぜ門を開けた、6ツ(午前6時)前に開けるなと怒ったのでまた門を閉めたが、境内に入った参詣人はなかなか外へ出ず、そのままにしたので中も外も人であふれてしまう。
卯の刻(午前5時)になって尊像の開帳のため門を開けると、内外に詰めかけた大勢が吾も吾もと堂内内陣めがけて押し合い、倒されてころぶ者も現れる。
この騒ぎに目を回した者もある。
目をまわしたと参詣の者が口々に叫ぶので、同行衆が水を与えようと手桶に柄杓を入れて持ってくるが、堂内は暗い上に人があふれており、誰なのかわからず、ただ叫ぶ声がした方ザブンと水をかけるとようやく気が付くと。
その側でちっぱな身なりの女中の参詣者はこの水をかぶり、ずぶぬれになったようで大笑いと。
また、この賑わいで堂の中には盗人が多く紛れ込み、財布・煙草入れなど盗まれた人も多くある。
村より参詣の者は腰に大きな瘤があるが、掏りはこの瘤を着物の上からさぐるも、人ごみの中なので財布を腰に挟んでいると思い込んで瘤を切ったので、はっと叫んで目を回してしまう。
血だらけになったので、皆がそれ見て驚き騒ぐと。
その他、人ごみで怪我をする者もいると。
誠に稀な繁盛である。
ただし33年前の開帳では参詣の人が境内に入りきらず、裏門から帰る人を出したと。
この度は裏門を開け、昔の賑わいに比べると静かだと話していたが、この尊像の開帳は他に比べようもない人出で文章にできないほどである。
この三尊仏の開帳は、勢州一身田と京都、この2ケ所の日数は失念、勢州桑名にて1日、濃州神戸にて7日、同高須にて7日、それから当所である。
15日より3、4日は参詣の者が絶え間なし。
その後少し空くが、また20日過ぎから段々と賑わい出し、毎朝早くから参詣して境内は人であふれる。
4ツ(午前10時)頃より9ツ(午後0時)までは空いている。
この秋は残暑が厳しく、朝夕の参詣が多い。
閉帳は申の刻(午後3時)である。
この時刻に鐘が聞こえると人は走って集まり、朝のような混雑になる。
毎日の賑わいは、人の頭が庭の中にうねうねと打ち寄せる波ように見える。
毎日3度ずつ拍子木を打って読経が行われる。
閉帳後も御礼参りだと毎夜5ツ(午後8時)過ぎまで参詣し、昼と同様に賑わう。
この賑わいは若宮の試楽と同じくらいである。
このためあちこちで辻売りなどが出る。
菓子屋・餅屋の類で、信行院筋の両側、円頓寺筋、慶栄寺借家あたりの両側の家々を開帳の間は貸し切り、店を飾り立てて小幟その他いろいろな印を立て、思い思いの家名を付けてうどん・餅・菓子などを多く売る。
中でも歌を歌い、曲舂(歌いながら餅を舂く)する一身田からついてやって来た餅屋は大評判でとなる。
その他近辺の町家は煮売茶屋となる。
特に江川橋西まで、南は信行院筋筋違橋まで、東は上畠橋東五条町、正方寺町角あたりに人が多く集まる。
橋西の木戸の側に朱の菊紋の提灯2張が出る。
ここより菓子屋・餅屋が多くある。
このあたりから江川あたりまで、家並みでは看板・小幟を次々と飾り、浮世絵のように見える。
信行院の入口には揚張が2張ある。
門前には井筒屋という線香売の棚がある。
家の中ではなく棚を並べて売る。
門の入口に卯ノ刻(午前5時)開帳、申ノ刻(午後3時)閉帳の張紙がある。
左右の提灯は黒菊の紋がある。
境内へ入り、右には棒つき(番人)が紋は菊の花に一の茶の羽織に脛巾を巻き、左には目明し小屋で足軽・中間の腰掛があり、板葺きの屋根に片庇、また右に番所が南向で、表は長屋で2畳敷、幕を張って中には人なし、ヲトイという用心水がある。
左に手水鉢、北向同行は肩衣、袴を着た2、3人、柄杓を持って腰かけており、参詣の輩が冥加銭1文を出すと水をかけてくれる。
この冥加銭は笊籬(竹で編んだ籠)に入れて山盛りになる。
右には御絵伝(親鸞聖人の生涯を描いた掛軸)の小屋で、南向きの板葺きが数戸、畳、外幕は紫、紋は白、両外幕は紺、紋は白、御縁記の札が下げてある。
三尊仏沙弥の由来を描いた掛物4幅、初めは天竺月蓋長者より百済国へ渡り、それより日本へ船で渡るところまでが2幅、日本大和磯城(しき)島の金刺(かなさし)に移るところより太子が守屋を退治することとこの内彫(ママ)が堀江へようやく沈むことが描かれている。
3幅は本田善光が善光寺成就することが描かれる。
4幅は高田山の記より上人が夢見ての感得、専修寺成就のことまでを僧たちが代わる代わる説明する。
この小屋は西へ垣出しをし、当寺安置の三尊仏をこの中で開帳する。
これは本仏写しの木像である。
左に板葺きで葭の囲いの役人小屋、前には槍を立てるところがあり、堂の前には真ん中に常香場で覆油障子、四方は障子で囲って幕を張り、両方に提灯を掛け、大きな香炉に抹香を置いてある、参詣の人は冥加銭を投げ、抹香を焚く。
前の柱に細引を張り、毎日落ちていた数珠・扇・煙草入・手拭いなどの類、いろいろな品をぶら下げてある。
柳・菩提樹の垣根に沿って幟を立ててある。
左右一対、真ん中は大振りで下の方に雲の模様が染め込んである。
天拝の文字には京都で開帳の際に禁裏において開帳されたとある。
掃部頭様が出かけられた際に材木町あたりよりこの幟を見て、恐れ多いとこの文字が見える前では下馬されたと噂している。
堂内に入った右には御宮殿(本尊を安置する場)で奉加場(寄進の金品を受け取る場)があり、これは三尊仏を安置する施料で宮殿開帳が終わると当寺に納めると、仏餉袋(お供え物を入れた袋)が置いてある。
左の方は内陣の入口で香を沈香(香木)を勧める。
12銅(文)で内陣に入る切手(切符)である。
このような包がある。
(図略)
これを持って中に入り、中で渡すと通してくれる。
これを持たない者は中に入れない。
そのため内陣に入るのは12銅でござると叫んでいる。
この沈香を初めは堂内で売り、その後はのべはし(?)の左に床台を出してこれを勧める。
ただし、16日より切手を持って内陣に入ると。
15日までは何の隔てもなく拝礼できる。
堂内は仏前直ぐの内内陣、内陣は隔てて外側になる。
内陣といってもここから内々陣へは入れず、この中で拝礼できるのは同行か金銀など供養した者だけある。
この取り決めも16日より始まる。
あちこちからの寄進などを木札・紙札に張り出してある。
宮殿の素晴らしさ、宝前の供物、いろいろな飾りなど見事である。
かつ、宮殿の側に白木のくり足の台だけがいくつも積んである。
これは京都で開帳の際の捧げ物のようで、下げ札には殿づけの仙洞御所、宮様方、御摂家の名前がある。
内陣の後ろには幔幕(大きな幕)を巡らせ、青色金紋の対の綟子灯籠(文字や柄入りの灯籠)、立花(生花)前の欄干に地は紅金の水引鳳凰の縫い、これは平野町よりの奉納である。
内陣の拝礼が終わっての下向道(帰り道)は右である。
それより西の方礼拝場へ通じる。
左は参向、右は下向と真ん中に仕切りがあり、下向道のべ橋口に供え物のお下りを配る。
銭は必要なく、皆が頂く。
右の方玄関に当寺の本尊を出し、参詣の人に拝ませる。
堂の中を全て拝み終え、御絵伝を拝み、下向する者が多くいる。
霊宝場述目。
一 親鸞聖人一代御絵伝 蓮如上人御直筆 巻物 一白字御絵伝の始めと
一 唯信抄 親鸞聖人御直筆
一 唯信文意 譜学御印御作 親鸞聖人御直筆
一 西方指南抄 □然聖人御一代行状を書いてあると
一 三世御和讃 浄土高僧和讃 正像末和讃の3巻は同聖人御作御直筆
一 御文 聖人の御直筆
一 仮名の御文 世に多くあるが御下書、これは清書の御文と これは見台の上に飾る
一 六角堂観音御夢化文 一幅 聖人御直筆 この文で浄土真宗を開く
この2品は宮殿に掛ける
一 聖人御数珠 専修寺開帳 上人
一 九字名号 一幅 聖人御直筆
一 聖人御骨 宮殿の中、宝塔に安置する この度一身田より伝来と子細多く、略す
一 十字名号 一幅 聖人御直筆
以上。
これより御絵伝開帳。
一 大須門前で鬼娘の見世物を4文で見せる。
一 清寿院境内にて力持興業が行われる。
太夫小竹長五郎は先年2、3度やって来て大評判だった小竹栄五郎の弟と。
怪力である。
色々な曲芸の中でも石の井筒の上に桶を積み、上に人を乗せるものがある。
前芸で手毬の曲芸を行う。
この者は先年もやって来ており、鞠の小かんという者であると、その時は年若い。
奇妙な曲芸遣いで評判が良い。
一 この頃、日の出に三尊の阿弥陀を拝むため7ツ(午前4時)頃より前津大池、巾下あたりよりは江川端の上へ拝みに行く者が多くある。
確かに拝んだという者の話は聞かず。
しばらくしてこの噂は聞こえなくなる。
信行院開(閉)帳の事。
この2、3日前より堂内椽側古畳を粉々に踏み破り、まだらに残った雪のようにあちこちに残ると。
これでこの度の繁盛がわかるであろう。
散銭・諸勧化などを集めたところではおよそ1000両ほど納められていたと。
一身田・高田山・当院の3ケ所に納まると。
京都では1000両集まったとのことで、京都に劣らぬ当所の繁盛ぶりは有難いことである。
また手水鉢をある山師が7両で請け取り、15両あまりの利益を得る。
14日、昼から近辺の茶屋は皆片付ける。
家々の壁を壊して柱を抜き、思うまま店を飾っていたので元の通りにして返すと。
15、16日の両日には藩主がお忍びで参詣するとの噂があったが、全くの嘘で二の丸の御女中が参詣すると。
閉帳の後は名古屋の町中とてもひっそりすると。
17日、帰る仏を拝みに、京町より本町通両側に多くの輩が並ぶ。
尊像は長持ちに入り、聖人御骨は上輿に乗る。
その前に一身田の役僧が立派な網代輿に乗り、そして同家老、当地高田派の寺々が見送り、いずれも立派で見事である。
また取持の講中は唐衣・袴を着て2列に並び、道々で散銭を勧める。
これを御つなぎという。
その他町・在講中1組ずつの印小幟(小さな幟)を出す。
この行列はひっきりなしであるので略す。
賽銭箱を吊って通る。
両側から賽銭ひねりを雨のように投げ入れる。
霊宝の長持には三尊仏がいらっしゃるのとの立札があり、信心の輩が左右に付き添い拝礼する。
念仏は大きな声である。
聖人御骨の上輿に大勢が御和讃(仏教賛歌)を声を揃えて勤める様子はとても格別なものに見える。
上輿は四隅に白い布で注連(しめ縄)、戸帳(垂れ幕)を紅に金紋の菊、水引、白地葵唐草、四隅に瓔珞(ようらく、装身具)を掛ける。
信心深い人々は、笠寺、または鳴海まで多くがついて行く。
並んだ拝礼の人は言うに及ばず、通りがかりのあらゆる人が手を合わせ、深く仏を信じる。
城下を始め周りの村々まで全てこの尊像に名残を惜しまぬ者はいない。
誠に不思議な仏像である。
当所より池鯉鮒(知立)に泊られ、夕方まで開帳する。
岡崎・吉田・江戸浅草で7日、同上野で7日、麻布で7日開帳し、下野へ戻る。
一 信行院の輪番(交代で務める寺役)は身持ちがとても悪く、博打宿もやっていると。このことが一身田へ聞こえ、開帳中は大目に見ていたが、18日早々に追院(僧の追放刑)する。
(p53~p59)
※『金明録』では意味が不明なところは『蓬左見聞雑著』『絵入猿猴庵日記』を参考に補ってあります。