名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

日本にヤマアラシっていたんですね

安永6年(1777年)。
1月。
1月1日。晴天。

同夜、春日井郡勝川村で火事があり、家13軒が焼失する。
同郡味鏡(味鋺)村、丹羽郡石仏村、葉栗郡大毛村の以上の5ケ村で火事があったと。ただし、1ケ所はわからず。

3日、飴屋町黒門の足軽が右向かいの古木屋の亭主を切る。
借金がらみとのことだが、詳しくはわからず。
ただし、古木屋は大酒に酔って口論となり、貴様の刀では切れまい、これで切れと脇差を渡し、肩肌を脱いでさあ切れと言ったので仕方なく切ると。
足軽はしばらくして立ち去る。

この春、様々な異変がある。
三ケ日の内に巳の日があれば騒がしいと、2日は巳の日で、辰の元日のためとも。

京都にて運気考という書物が出版され、名古屋の本屋でも出版されて買い求めて読む者が多い。

□日、摂津守様(尾張分家松平義柄、のち徳川治行)が嫡子となる。

去年裏町あたりの老婆殺した仲間が次第に判明し、牢に入る。
この頃の流行り歌に「お市後家女に三年通た、サア、通ふた、そうかいな、しるしイに子が出来た、お市後家女」
初めは熱田あたりより歌われ、名古屋中で流行する。
この歌、江戸にてはお市後家と歌わず、お石と歌うと。
公方様の庭の石のことでいずれ目出度いことがあると。
これを名古屋では取り違えたようで、たまたまだとのという噂もある。
石のことは詳しく聞かず。

七ツ寺の門前で山あらしという見世物があり、名は蒙(豪)猪(カウシシ)と言う。
頭は鼠に似ており、全身の毛は釘のようで、細いものは針のようである。
尾を振ると鈴のような音がする。
枝を持って叩こうとすると全身の毛がことごとく立つ。
山で捕らえようとした時は、後ずさりし、角で人を追い払おうとすると。
大きな籠に入れてあり、銅製のひごである。
餌は四季の果物を食べる。
珍しい獣である。

知多郡野間の血の池が湧き出ると、土地の者が話していると。

28日より2月18日まで、丹羽郡石仏村稲葉寺を開帳する。

近頃、世間では生花が流行する。
また、江戸からやって来た流派の花が大いに流行する。
この生花は金銀を入れるのを特徴とする。
変わったもの好きが多いものである。

2月。
2月、大須の芝居では読切講釈伊賀越乗懸合羽が演じられ、これは伊賀上野の敵討を題材にしたものである。
京都で大当たりし、当地にても大入りとなる。

8日、彼岸に入って阿弥陀寺で法山文が説法を行う。

西の空に激しく光る星が毎夜現れる。
夕暮れになると現れる。
宵闇であっても薄い月明かりのようである。

18日より4月5日まで、愛知郡石仏村善昌寺石像を開帳する。
大きな仏像である。
ただし、8月に開帳したところ、服喪となり3、4日で中止となる。
そのため50日の残り45日間開帳する。

丹羽郡小折村常□(観)寺大日如来を開帳する。

広小路神明社内にて講釈興行が行われる。
三保木三閣という名人である。
当時大流行の伊賀越乗懸合羽と張紙を出し、上野の敵討を語る。
聴きに行く者が多い。
後に太閤記、浄瑠璃の外題近江源氏、信長記でいずれも繁盛し、夜は宿にて講釈を聞く人も多い。
小屋では言えないようなことを話し、稀な大入りとなる。
近江源氏は後に中止される。

清寿院境内にて、飛人形と名付け、人形の相手に子どもを出演させて狂言を行う。
太夫は宮園節を語り、景事道行所作事などを子どもが出遣い(正装)で行う。
侍や召仕えも観るのを許され、大入りで繁盛する。

大須門前へ東戯遊という曲太鼓の名人がやって来る。
ただし、前後に太鼓4つを並べて打ち、8人芸の類である。
前芸は子どもが歌い、念仏踊りを行う。

同門前へ、刀を差し、抜き身での曲芸の太夫がやって来る。
その他、手妻(奇術)・布さらし(軽業)、いずれも上手である。

当寺で灌頂が行われる。
観音堂の戸を閉め、中の飾りつけ、掃除などを行う。
28日より3月6日までは灌頂、28日より3月3日までは伝法、3月4日より同6日まで結縁を行う。
ただし、堂内椽をきれいに掃除し、塗鉾・絵馬など・邪魔なものは全て取り除き、前の格子の中は裏から渋紙でふさぎ、何も見えないようにする。
午の刻(午前11時)より始まり、中門より練り出して後堂へ上がり、ここから沓を履き、堂の中へ入って様々な儀式が行われる。
灌頂は白い堂の中で行われ、外からは見えず。
参詣の輩は椽にへりとり(縁の付いたござ)を敷き、聴聞する。
結縁灌頂は在家の輩、志のある者、100文ずつで灌頂を受ける。
この時は戸を閉めており知ることはできない。
真っ暗になる。
受けた人に様子を聞くも、堅く他言しないようにと。
この灌頂の間は芝居を休む。
ただし、3月3日灌頂が休むので芝居興業が行われる。

3月。
3月1日より6月10日まで、知多郡大高鷲頭山長寿寺鷲頭観音を開帳する。

3日より、春日井郡愛藤山小松寺正観音を開帳する。
同日より、南寺町光明寺開山湛誉上人三百回忌が行われ、来月8日であるのでこの日から教順上人が説法を行う。

8日より28日まで、矢場の地蔵を開帳する。
尊像の開帳は珍しいことである。

4月。
4月、東門徒口称念仏、御教戒の御書が府下の寺々を廻る。
城下が終わると尾張八郡を順に廻る。

8日、光明寺開山忌が行われる。
13日、惣回向、頓写が行われる。

21日、上郡(尾張の北)のあたりで大きな氷が降り、100匁(1匁は3、75グラム)ほどあると。
また50匁くらいのものも。
岩倉村・小木村・小牧村、このあたりは北風が激しく、氷で麦が粉々になると。
小木村のあたりで家の窓からのぞいていた者の話では、黒雲の中を渋紙のようなものがひらひらと通ると。
このあたりだけのことで、他の村々では麦に被害はなし。
名古屋近辺では少し雨が降り、場所によっては氷が降ると。

極楽寺にて善頂寺が説法を行う。
ただし、彼岸中から説法が行われ、とても上手でおかしな話も交え、法山上人の説法のようであり、聴衆が多い。
西国三十三所縁起である。
仏前へ十一面の尊像を出し、三十三の蓮花灯を捧げ、御膳の供え物・花などを見事に飾り、巡礼御詠歌を高座にて鉦鼓を鳴らして勤められる。
当日、清水の縁起であったので清水の御詠歌を3度繰り返し、その後歌念仏を行う。
聴衆も同じように勤める。
この説法御詠歌は流行し、七ツ寺観音堂にて度々勤められる。
小さな借家の婆や嫁まで3人集まれば御詠歌が始まるとの噂がある。

23日より7日の間、阿弥陀経千部が執り行われる。
三十三所の説法が終わり、報恩のため当寺の上人揃って西国を巡礼し、寺々へ普門品1巻ずつ納めると。
聴衆から募り、御経の裏に自身の名、俗名を書き入れ、寄進はおまかせ。
三十三蓮花経灯30文、御膳米の入った仏餉袋の寄付は高座で募る。
また結縁は小さい紙の十一面観音の陀羅尼の守札で、結縁であるので冥加銭(奉納金)なく与える。

28日、惣回向が行われ、仏前に三十三所の観音御影をかけ、参詣の輩は声を揃えて御詠歌を一番から三十三番まで勤め、終わると説法が始まる。
谷汲の縁起、御詠歌での回向を行う。
昼過ぎると放鳥会が行われる。
観音御宝前の御膳、花など飾り物は見事である。

一 当年祭礼は17日に巡行する。
御先乗は去年通り。
押乗りは加藤多宮と平岩瀬兵衛。
名代は渡辺飛騨守。

5月。
5月、熱田馬の塔がかなり出る。

8日より7日の間、桜之町本遠寺大黒殿万巻陀羅尼を行う。
大黒天の小像を俎針(?)にて刻み、同宮殿に安置し、陀羅尼1万巻を捧げ、人はこれを着ん1文で感得する。
萱津妙勝寺上人の説法が行われる。
大須馬の塔が数多く出る。
中でも飴屋町の馬・警固はいずれも見事である。
皆、数え歌の趣向である。
その文句は「一ツとへ 一ツなごやのとち兵衛どの 四国をめぐつて猿となる見の見の。二ツとへ 二見の浦では網を引、と諷ふ時、網引の所作をする。」
この歌は大いに流行し、岡崎女郎衆が誘うように後から女が誘うように通り行き、その後三ツトヘと歌い出す。
いずれも身振りをつけて踊る。

6月。
6月1日より28日まで、広小路柳の薬師を夜開帳する。

同日から29日まで、末広町巻窓院朝日薬師を夜開帳する。

熱田天王祭大山車が出る。
4日夜、試楽が行われる。
作り物・懸行灯は家々にあって特に賑やかである。
作り物が数多くある中で、市場町では大きな海老を家の中に飾ってあり、頭は半分町へ飛び出し、髭は幟竿のようである。
全身を包む毛氈は90枚余りと。
また、古渡の若者は試楽で夏祭りの狂言を行い、舞台も作ると。
若者は道々で誇らしげに樽・蒸籠を車に積み、張子の掛鯛は大きさが町いっぱいの花車にし、茶・弁当を持ち、面白く作った亭・座敷のようなものを吊り、道々で休憩すると。
古渡を黄昏時に出発し、見物が群れ集まる。
旗屋新道あたりまで賑やかに巡行するが、ここで役人に出会って停められ、皆ほうほうの体で帰りは鯛も風呂敷に包み、すごすごと戻ると。

津嶋試楽は大雨で、夜が更けてから巡行する。

清須の花火は見事だと、見物は多い。

裏町天王祭の作り物は大須門前の様子である。
若者は裸になって仁王の真似をし、茶屋の婆は麩焼きの店まで拵える。

当年御葭が流れ着いた村は、一、津嶋御葭同所下構、次の御葭熱田新田十一番割、戸部御葭熱田新田十六番割。

当年、津嶋団扇はいろいろあるが、試楽の絵草子、祭式の図を売り出す。
朝祭の図はこの頃からあったのか。

南寺町大乗院で大相撲の興行が行われ、近年まれな大がかりなものである。
西大関朝日山常右衛門、関脇和泉川こと天津風、東大関甲山楯右衛門、関脇谷風、その他有名な力士が多い。
両大関は偽りで名前だけである。
関脇をこの度は関とする。
三都(大坂・京・江戸)でもまれな相撲なので連日大入りとなる。

この頃、北国海道筋にて馬子が送り荷の綿を盗み、江戸にて重い処罰を受けると。
これはとても重い罪なので、諸国の辻の札にこのことを書き出すと。
当所の辻の札に書き出すと。

23日・24日、源戴様(宗勝)十七回忌の法事が行われる。
この時から御側物頭以下規式以上の輩はまとめて拝礼となる。
この法事の間は相撲、見世物などは休む。

熱田宿東本陣で藤堂和泉守殿家中の者が乱心し、自分の家老足軽を手討ちにしたので町内で騒ぎとなり、外へも切りつけに出てくるかと思ったとこ、座敷の中で静かにしていたが、奉行所より役人足軽が棒で門を守り、提灯もおびただしく、熱田宿中裏々まで大混乱になると。

この頃、北の空に現れる星があり、これを見ると流行病になると、この病を免れるまじないの札が江戸よりやって来る。
この札は図の如し。
(図略)
この文字は刷られたものである。
割字のようでわからず。
1人に1枚ずつ、3夜枕にして川へ流す。

春日井郡河村に御涼御殿が建つ。
御張付(障壁画)、御唐紙などは残らず内藤東甫の絵で、流れの中に鮎がたくさんいる図、全て良い出来と。

7月。
7月5日、禅寺町永安寺虎関和尚が亡くなる。
年□当時学力の聞こえが高名な和尚で長らく病気のところ、4日夜、弟子を枕に近づけて話されたのは、自分は明朝5ツ時(午前8時)に死ぬので、死後に自分の死骸を人々に見せるようにと。
板を1枚、顎から膝まで支えをし、首が俯かないようにするよう申し置き、茶漬けを1膳食べ、明日まで問答を行う。
遺言を終え、明朝沐浴をなされて本堂仏前へ行き、倚子に座って緋衣・七丈の袈裟衣、右には払子を持ち、左に珠数(数珠)を持ち、また問答を行われ、僧が数多く集まって読経をする中、問答が終わった時に香を焚きながら眠るように息絶える。
遺言の通り、板を支えにし、門を開き、人が拝む。
遠きも近き人もこれを聞きつけ、身分に関係なく人が多く集まる。
あまりに大勢だったので昼からは門を閉ざすと。
遺言で春日井郡中切村に葬り、葬送の際には僧侶が多く供をすると。
多くの人が惜しむと。

9日・10日、源昭様(徳川治興)一回忌の法事が行われる。

12日より8月晦日(29日)まで、愛知郡野田龍潭寺薬師を開帳する。

24日、裏町あたりよりしょがへぶし(しょんがえ節)を大勢で揃えて歌い、夜が更けると上町へ踊りながらやって来て、京町筋より上材木町を下り、伝馬町筋より川西へ戻ると。
家々では戸を開けて見物するぐらいで、踊りの人は2、3町(1町は約100メートル)ばかり続くと。
踊り歌に当時流行りの曲搗の餅の歌を交え、面白く踊ると。

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