名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

立派な蛇じゃないですか

天保6年。
一 天保6年乙未閏7月9日、大野木村の蛇池から俗にいう蛇の天上(竜巻)なのか風や雨が激しく、雲を空に巻き上げ、雲の中に蛇の形が見えたと。
このことについてある人が言うには、年支はわからないが、以前大野木村に名の知れぬ寺があり、その住持がある日外へ出かけると、途中で卵を1つ拾い、何の卵かわからなかったので箱の中に入れておいた。
その後用事があってこの箱を開けるとその中に小さな蛇がいた。
さては卵の殻を破って生まれたのかと卵を見ると、卵の殻もあったのできっと蛇の卵に違いなかったと、蛇をかわいがり、飯粒を与えて育てると日ごと大きくなり、周りにも慣れて飯時には現れて食事を求めるようになった。
年を経ると5、6尺(1尺は約30センチ)にもなった。
ある日村の翁がやって来て、上人が蛇を飼ってかわいがっているので老婆や女たちが恐れ、これでは参詣の人が少なくなり、寺もすたれてしまうと村の者たちが言っていると意見すると、住持はこれを聞き、いかにもそうであろうと。
蛇が自分になついているのに捨てるのは気の毒であるが、人には代えがたいとかの地の里の堤へ携えて行き、蛇に向かって何年も汝を育ててきたが、村の老人が言うことに従うことにした。
不憫ではあるが汝をここへ捨てていく。
どこへ行ってもよいと言い聞かせ、経を読んで放つと、蛇はその後もその池に住んでいたが、ある時村の子どもが池で溺れて死んでしまい、尻や肛門は喰い破られていた。
村中の者までがあの蛇の仕業と言うので、住持はとても心配して池のほとりに行き、汝が子どもを傷つけたと人々が言っている。
もし人を傷つけたたのなら早くここを立ち去れ。
もし汝の仕業でないならその証拠を見せよ言って帰ってきた。
翌朝、この池に大きな鼈(すっぽん)が浮いて死んでいた。
よく見ればいずれも首がなかった。
さては蛇の仕業ではなく、鼈の仕業だったかと皆が感心した。
この度天に昇った蛇はこの蛇だったかと語っていたと。

一 天保6年乙未閏7月、在京御用達物書からの書状の写。
6日の激しい風雨は夜九時(午前0時)過ぎから雨が止み、風は強いままだったが景色は何ともなかった。
さて、岐阜のちりめん飛脚の宰領が荷物を馬7頭に積んで京へ向かっていると、武佐と守山の間の野洲川の並木のあたりで急に風が止み、黒雲で一寸(1寸は約3センチ)先も見えなくなり、宰領が途方に暮れていると黒雲の中に光るものが見えたので、これはと思っていると、ふた抱えほどある松の木が根から1間(1間は約1、8メートル)ほど上から折れて馬の上に倒れてくるが、幸いにも二股の大松だったので、宰領は馬上であったが右の木の股の間になり、落馬して脇差が弓のようになって3ヶ所怪我をするも命には別条なく、通し駕籠(同じ担ぎ手と駕籠)で京に到着した。
その際に馬は足が4本とも折れて即死となる。
馬士も即死となる。
馬士の片足、その他小附荷物(手荷物)と引き廻しの合羽(袖のない合羽)半分、それと小間物道具の類が行方がわからなくなったと話していると。
同4月8日に出された書状で申し来る。

一 8月9日、七ツ寺で伊東子元の五段入の碁会が行われる。

一 同18日、太田益衛が御堀で水死する。
14日病達(発病?)。

一 8月7日、金城東柳原長栄寺の豪潮律師の葬式が行われる。
志水挂溜(?地名)に葬る。

一 8月28日、七寺において7才の子どもが犬にかまれて死ぬ。

一 10月2日、小川町で火が出る。
白山の下から西まで両側が残らず焼失する。

一 10月1日、山王社内蛭子が広井八幡へ遷座する。
本町筋伝馬町へ、それから御園町へ向かうと。
下御園十日夷、米倉町獅子、御園片町、船入町、伊倉町、葭町、中御園町の町々はいずれも四半(午前10時)に押し立て、それぞれの衣装は豪華でないけれどいろいろと揃える。
特に葭町の子ども30人余りの児祢宜は見事である。
八半時(午後3時)に広井に到着する。

一 11月8日、9日、大雪。
名古屋は1尺(1尺は約30センチ)5、6寸(1寸は約3センチ)の積雪、北のあたりでは(風が)吹廻し4、5尺の積雪。
鳫鴨(鴈や鴨)は伊勢へ引っ越し、全くいなくなる。

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