名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

この水害は人災だった

天保6年。
天保6年未4月、濃州高須あたりの洪水の様子をその地の人から知らせた書簡の写し。
瑞作(和歌だと懐紙に書かれた題や名前)などは略す。
当地では洪水が度々あり、既に先月には5度も溢れた水が流れ込み、水中に沈んだ水門の深さが1尺(1尺は約30センチ)の時もあった。
洪水から30日にもなるが、大体は船で通行しているのでその苦労をお察しいただきたい。
さらに海側の流れも止めておらず、川並の住居同様で心配しております。
しかし、1日からは快晴です。
この様子ならば遠からず道も乾くだろうと期待しております。
あるいは当地の百姓が徒党を組んでいることを聞き及んでいると仰られるが、、この度は川から3合5勺でも水が流れ込んでおり、これは予想もできないことであり、5合5勺を超えれば御家中の輩が堤通まで出向き、裁許することになっております。
5合5勺より浅い水で流れ込んだことはなく、5合にならないうちは水番が出向くこともありません。
しかし、西の川から3合5勺で水が流れ込んだことは天災ではなく、万寿新田の者たちがほんのわずかな私欲のために手伝い、このため洪水になったとの明白な証拠があり、このため輪中の者たち一同が激しく怒って騒動となりました。
このわずかな私欲のために、輪中3万石ほどの麦、菜種、芋その他の野菜などが水で腐ってしまい、今年の麦が収穫できなければとても生きていくことができず、死ななければならないので、万寿新田の者たちと死ぬ覚悟だと集まって話し合い、早鐘をついて法螺を吹けば東西の堤から万寿に押し寄せるよう申し合わせ、誰を首謀者と申すこともなく、輪中の者たち一同は前文の通り激しく怒り、早鐘、法螺を吹き立て大勢いで上の村から押し下ったので、我も我もと後ろを顧みることなく一心に押し寄せた様子です。
もっとも万寿近くになると枚を含み(息をこらすこと)、無言で静かに押し寄せたとのことです。
万寿新田儀助のところには海側の見分のため笠松郡代野田斧吉が滞在しておりました。
この村の大助のところには信楽代官所多羅尾四郎次郎子息が立ち合いのために滞在していたとのことです。
御家御代官堀田治部助はこの村に2人が滞在しているので出向いたが、儀助の屋敷に百姓どもが襲いかかり、ドツトと声を上げるまで気づかなかったとのことです。
門前へひたひたと押し寄せたので、野田の家来などは門を閉めようとしたが、すぐに竹槍を打ち込んできたので閂を差すことができず、中から大勢で押さえていると敷居の下からひしひしと竹槍で足を突くとのことです。
家来どもはたまらず退いたとのことです。
その前に門を閉めると直ぐに屋根に上がり、瓦を投げたのでその瓦が治部助家来の頭に当たりかなりの傷を負ったとのことです。
しかし、治部助の家来は高須町方の者どもだったので、早速道具などを片付けて逃げ去ったので供の道具はひとつも傷つくことなどはありませんでした。
野田の家来は慌てて逃げ去ったので、主人の道具は全て打ち捨てて逃げたとのことです。
具足櫃、槍長持、合羽籠、駕籠、幕など残らず叩き壊し、引き裂き、粉々にしたとのことです。
門を閉めたのが一番の失策だと思われます。
野田は武道にとても未熟な者と思われます。
刀は百姓に取られたので石で叩いていたが、折れなかったので斧でようやく折ったとのことです。
具足櫃には金500両が入っておりました。
甲冑はなく、目指網だけと思われます。
御朱印と刀は床の上に捨て置かれていたので、あれこれ話し合ったがまとまらず、大勢でようやく諸道具を粉々にしたとのことです。
叩き折ったとか引き裂いたと噂があったのは、治部助へ上手くおさめるようにとの頼みがあったからとのことです。
郡代を始め手代、御代官にいたるまで何も持たず船に乗って立ち去ったとのことです。
まるで平家の一之谷の内裏を逃げ出したようだと聞こえてまいりました。
これを最初の手始めとして次々に壊し、頭のところ10軒余りを壊し、それから大助のところへ向かったところ、騒動のことを聞きつけて怖がって人はひとりもおらず、大助のところを壊した時は村の者の大半が手伝ったとのことで、これは日ごろから恩知らずな者と思われます。
百姓が決壊したところへを渡る際は、両方の堤に枕(杭)を打ち、大縄を張り渡し、畳を舟にして縄を手繰り、静かに渡ったとのことです。
準備万端であったのは全く河戸(カウヅ)祭礼の備えであります。
洪水のため河戸へやって来たあぶれ者どもや盗賊音頭取りは叩き倒したようであります。
大助のところでは別家、添家、土蔵など9棟が粉々になり、諸道具など残らず破壊されたとのことです。
その他帆引村安右衛門、本阿弥村善七、安田村藤右衛門などを取り壊し、いろいろ粉々にして夜中に大半が立ち去りました。
その後いろいろと噂がありましたが、どこにも被害はなく、まずはおさまったようであります。
いろいろと申し上げたいのですが、なかなか尽きないのであらましを申し上げます。
御慰みに御覧くださいませ。
以下外事(以上)。
五月四日。
この同日書状、はし作は略す。
当地の洪水のことはうわちまちまち(?)とのことで、お察しいたします。
しかしながら、以前の洪水に比べるとかなり水も浅く、私は何度も洪水にあって慣れているので少しも驚かず、暮らしはいつもの通りであるので心配には及びません。
4月中旬に最初の決壊で遡ってくる水が流れ込み困っておりました。
この5度の内2度までが門内に流れ込み、門内の水の深さは1尺(1尺は約30センチ)あまりになり、高塀を始め長屋内の水が腐ってしまいました。
この通り遡ってきた水で往来の大通りは水に浸かったままで、今でも舟で通行しており、その不自由さをお察しいただきたく思います。
しかし今月になって天気も晴れて水も段々引き始め、今日には私の門前の水の深さも1尺あまりになりました。
この様子ならば遠からず水は乾くだろうとお互いに話しております。
澪も近々塞ぐとのことで、何卒しばらくの雨が降らないようにと思っております。
水が遡ってくるたびに澪ができ、このような体たらく、困り果てております。
御存じの通り、町は全て床上まで水に浸かりましたので、皆が避難だと高い場所や両方の堤などへ引っ越し、商いを行うところもなく、全て空家というぐらいですが、近頃は段々と戻る者もあり、避難した者たちには御上より毎日2度ずつ粥が下され、何とかその粥で命をつなぐ次第で、目も当てられない有様です。
御上において莫大な費用で恐れ入りますが、全て万寿新田の奴らの仕業だと思います。このような有様ですので汁に具を一品も入れることができず、山の方の者から見舞いと貰った青物を朝鮮人参のように大事に貯えて間に合わせております。
御存じのように、私は魚の類が好物で毎日食べておりましたが、今は道行くことができず、桑名の出入りの魚屋は浸水以後はやって来ず、川魚は汚れた水や食べ物を食べているので品によっては腹を壊すので食べられず、今は精進ものばかりですがそれさえも不自由し、この災難を耐え難いと思っております。
その上海の上の住まいと同様、水がたくさんあっても水に不自由しております。
これも毎日御上から御中間により水を下されているので、飯のための米を研いだ白い水を桶などに流し貯め、その水を沸かして顔を洗い、手を洗っておりますが、ご存じの通り私のところは井戸の場所が高いところにあるので悪水(汚水)には手を出しておりません。
全ての困りごとを全て申し上げたいのですが、なかなか残らず書き上げることは難しく、あらましを申し上げます。
どうぞご覧ください。
以上。
五月四日 前田駒之進。
その上付け加えますと、前に書きました通り、上京とのことでさぞかし賑やかなお祝いをなさると思っております。
当地は水の中にあり、どこへも行くことができませんので遠慮して出向かず、節句のようなことも行いません。
一同沈みかえっております。
以上。
近頃洪水となった万寿新田の圦伏(堤防の下に樋を設置)方などでは弁解もあるのだろうか。
高須輪中の村々では人が騒ぎ立て、万寿新田へおよそ3、400人あまりが貝・太鼓などで押し寄せていると段々報告があがっている。
今尾村には次の通り張札をし、その他高須、秋江あたりにも張札をするつもりである。
これは以前から不穏な動きがあると聞こえているので、絶対に騒ぎ立てないよう御領分の村々へ強く申し渡しており、この騒ぎ立てた者は御領所などの者であるかもしれないが、万一徒党を組んで不法な行いがあってはもってのほかであるので、すぐに手代、同心をかの地に差し向ける。
なお、詳しくは追々申し上げるが、まずは承知しておくように。
4月13日 鵜多須御代官。
来る13日、万寿新田へ海用留(堤防工事)に参上する。
水に浸かったところは残らず参上する。
下札。
万寿新田の決壊については、近頃申し上げた通りいよいよ今月13日笠松郡代の見分が行われ、さらに信楽御代官多羅尾靭負殿嫡子同姓織之助も見分なされるとのことである。
このことを申し添える。
高須輪中での騒ぎのことについて申し上げた書付。
以前申し上げた高須輪中の騒動は次第に人数も増え、時の声を上げ、全ての近村では寺院の鐘をつき、人数はどれくらいかもわからないが貝、太鼓を鳴らし、銘々手斧・俸(棒か)・竹など種々の品を携えて万寿新田へ押し寄せ、騒ぎの前に笠松郡代野田斧吉が到着していた庄屋儀助のところに押し寄せたので、門戸を固めて防ぎ、説得を試みるも聞き入れず、門戸を打ち破って多くが乱入し、斧吉の具足櫃を始め御用長持に至るまで打ちこわし、取鎮方の手にはおえず、ほうほうの体で裏口から何人かが小船で森下村の方へ退いたとのことです。
高須御代官堀田治部助が家来を召し連れてこの者たちに出会い、騒ぎを鎮めようとしたところ、けしからぬことに手向かい、家来、若党に傷を負わせました。
さらに庄屋の儀助の家を散々に打ちこわし、そこから笠松堤方手代旅宿万寿新田善三郎のところへ乱入し、儀助同様に打ちこわし、さらに同所庄屋大助宅も打ち壊し、同人方へ滞在していた多羅織部助は七合輪中の方へ退いたとのことです。
今のところは前にあげた治部助家来の他は傷を負った者がいないと知らせが届いております。
これは寛政10年午年の安田での決壊の際のような水害ではなく、わざわざ決壊したところの者が決壊させたとの疑いがあり、村々から多くの人が現れて騒動になり、御役人様が人を召し連れて出向いているとのことで、寛政の時は庄屋、組頭百姓宅へ押し入って米を炊いて勝手に食べ散らかしただけであり、庄屋どもを始め居宅を取り壊すようなことはなく、もちろん御役人に手向かうこともありませんでしたが、今度は先の通り斧吉初めに手向かい、庄屋ども始めの居宅を取り壊したことは前代未聞の大ごとなので武器などを用意した上、人数を引き連れ、早々出向いていただけないでしょうか。
場合によっては斧吉・織之助からも加勢を頼み、寛政の年よりも多くを連れて出向いていただけないでしょうか。
私も最寄りの場所に出向き、騒気の様子を報告いたします。
出来次第早飛脚でお知らせします。
本文の通りではありますが、もし乱暴をした者たちがその場から立ち去ることもあろうかと。
そのことが分かり次第すぐにお知らせします。
4月13日 鵜多須御代官。

(3―p139~p141)
こちらも参考に
https://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/KISSO/pdf/kisso-VOL08.pdf