天保4年。
一 9月24日、法華寺町下吉田一成のところで御堂の照遠寺弟子と辰巳屋勘左衛門の女(娘)が心中する。
一 9月27日、総見寺和尚の葬式が行われる。
一 10月25日、夜九時(午前0時)、大地震がある。
26日、小さな地震がある。
一 11月末、河原町……心中がある。
その跡へ丸太という駿河町の者が自分の扣(控地や扣屋敷か?)なので金を持って行くと。こころふけ(心がなえる?)、大変な出費と。
一 12月23日、土器野で磔がある。
板長屋(板屋小路)の子殺しの婆と云々。
一 同日、瀧川彦次郎殿足軽天神弥助が牢で打首になる。
苗字が何であったかは忘れてしまい、天神は異名である。
一 本田兵庫の領所三州桜井村の源助の話では、隣人の甚七の女(娘)は生まれて実の母親が死んでしまい、継母に育てられていたが、6歳の年には父も死んでしまい、継母と2人になってしまう。
継母は甚だ思いやりに欠け、6歳の時から雨であろうと雪であろうと遠くに使いに行かせ、帰りが遅れると必ず怒って罵り、杖で鞭打っていた。
女は少しもこれを恨まず、昼夜心をこめて尽くしていた。
12、3になると、とても容姿がしとやかで優雅になる。
母が岡崎の娼家に売ろうとすると、娘は泣きながら言うには、子どもは母親の命令には背かないが、もし子供が行ってしまえば誰が母に仕えるのか。
しばらく策を練ってから花街に送ってはと。
女の年が16になると母は病に伏し、足も立たなくなる。
家はますます貧しくなり、衣食ともに乏しくなる。
女は自分の励まし、薪を背負い、松の落葉を拾い、人のために衣を洗い、人に使われてわずかに金を得て母を養い、夜は一晩中母の按摩をし、数か月横になることも食事することもなかった。
人はその容姿に恋をし、しばしば言い寄るも応じなかった。
村の人たちは皆女の孝行ぶりを称賛する。
17の冬の10月、矢矧の橋の西へ出かけることがあった。
夜になって急いで帰ってくると堤の上で1人の老僧に出会い、僧が言うにはお前の孝行は既に十分である。
老僧はねずみ色の衣にねずみ色の袈裟で、律僧(戒律を固く守る僧)のようであった。
老僧が近いうちに慶びあると言うと、娘は急いでひざまずいて手を合わせ、私はいまだに尊者(高僧)を拝んだことがない。
どこに住んでいるのかと問うと、老僧は豊川に住んでいると言って立ち去る。
娘は深く僧が並外れた僧であると信じ、阿弥陀仏を念じながら走って戻り、薬をすすめ、食事を用意する。
さてまた、西尾の城北に1人の富商がいた。
酒を造り、米を売り、1人の孝行息子がいた。
母を失くして、父だけであった。
裕福であったが家事を怠らず、父に仕えてその意に背かなかった。
行いは少年のようで、見た目は老成の人のようであった。
年は今年で23であったので、父は妻を迎えようとするが、その子が言うには、自分はまだ妻を迎える年にはなっていない、ただ自分の願いは、容姿は関係なく、財産も関係なく、ただ父に仕えて孝行する者を迎えると言い、みだりに結婚を承知しなかった。
1日、僧がぶらりとやって来て休憩をしていった。
父子は元々善行を積むことを好み、食事を勧め、銭を与えた。
僧が言うには、あなたの家は人知れず善行に励み、息子は孝行者である。
桜井村の甚七の女は長年継母に仕える孝行者である。
あなたの家の妻となれば天から授けられた良縁であるので速やかに迎えるように。
必ず良い子、良い孫に恵まれ、家は栄えるはずである。
主人が言うには、その女尊者の縁者であろうか。
僧は笑いながら私は出家人でどうして世間のことに関係しようか。
ただ孝行者の良縁が熟するのを知り、そのためやって来て話したまでである。
主人が言うには、僧の住む場所はどこだろうか。
僧が言うには、私は豊川に住むが、住職ではない。
雑草の生い茂る中の小さな庵があるだけであると詳しくは語らなかった。
般若心経を唱えながら立ち去る。
主人は喜んで人を桜井に遣わし、その女の実否を尋ねるとはたして僧の言う通りであった。
主人は信頼できる人を選び、桜井の村長のところへ行かせ、婚礼のことを話すと、その日は彼女の継母が死んで女は忙しいようであった。
哀しみに暮れる中、村長がやって来て婚姻のことを告げると近所の者は全員驚き、その上話をしながら娘の幸運を羨み、女は固辞して自分のような卑しい女が大家に嫁ぐことを望むもうかと泣きだして止まなかった。
村長がこのことを告げると、主人はますます女を信頼し、孝行の心は間違いなく、貧しさのことは関係ないと村長に金を与えてその母を手厚く葬り、自らが大施主となって隣人にも礼を言い、娘を連れていこうとすると、娘が言うには、こんな私でも大家の恩をうけて母を立派に葬ることができた。
嫁となって夫に仕えるけれど、なお50日暇をいただきたいと。
様々な弔いを家で勤めてから大家に仕えると言ので、主人の下女2人を遣わし、50日の弔いを行い、その後に吉日を選んで輿で迎え、白間短乍(白間短窄、貧しい家)の中から大家の妻となって出ていくことを隣人たちの中では羨まない者はいなかった。
天保4年のことである。
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