天保3年。
9月、熱田大宮神楽殿に魚之棚の料理屋からの滅金(昔の金メッキ)の大画馬(大絵馬)が上る。
とても見事なものである。
先年の加茂の競馬の図を織物で奉納した物と同じくらい見事さである。
10月5日、矢田村で火事がある。
巾下の火の見が鐘を打ち、大騒ぎとなる。
10月7日夜、伏見町四丁目西側で火事にはならず。
火燵から天井へ燃え上がるが、屋根には燃え移らず。
10月25日朝四時(午前10時)、瀧川家老勝野安兵衛が出勤の途中、同家足軽大将弥助が水主町西側で刃傷に及び、安兵衛を切り殺し、そのまま町役所に現れると。
天神弥助は元手廻り部屋頭より取り立て、当時足軽になり、苗字は何とかと。
天神は部屋頭の際の異名である。
結果として安兵衛は未熟な行いで水主町の借家に逃げ込んだと評判が悪く、総じて弥助は人の道に背いていると。
10月26日夜四時(午後10時)過ぎ、志水八王子南の2軒が焼失する
雨の降る中でのこと。
10月24日から通用の弐朱金が新規に吹き立てる。
これまでは銀だけであったが次の通りとなる。
目方は□□(ママ)、図は下の如し。
(図見当たらず)
8月24日、久屋町一丁目全泉庵金毘羅宮へ自分の指を切って奉納する馬鹿者がいる。海東郡□(ママ)村浅右衛門とかいう者である。
琉球王の代替で先例の通り遣いが来聘する。
11月4日、名古屋を通行する。
文化寅から26年目と永らく間があったので珍しく、当日通る道筋では見物の桟敷を構え、晴れの舞台と善美を尽くし、万人が競い合って見物する。
言い表せないほど壮観で、老人を除けば見物に行かない者はないと。
もっとも通る道筋の辻々を始めあちこちで普請を行い、栖掃(清掃)警固は厳重に行き渡る。
起宿へ来聘の官職姓名などは次の如し。
(官職姓名など略)
琉球風と言って、まさに老若の区別なく風邪が流行る。
誰もひかない者はなし。
この時の歌に、琉球の風を車にのせて来てひく人もありおす人もあり。
この風邪は西国から流行り、江戸まで流行る。
なぜ琉球風なのだろうか。
通る道筋の桟敷や費用は大そうだと。
閏11月晦日(30日)暁七半時(午前5時)から、本重町東中道から火が出て、両側の中では北の2、3軒が残り、それ以外は残らず焼失する。
蒲焼町東西へ1町(1町は約100メートル)の間が焼け、前後1、2間ずつが残る。
同じ時、山王前菓子屋が少々焼けるが、直ぐに鎮まり、火事にならずに済む。
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