天保2年。
8月、丸米野村婆1人。(原文がこれだけなので何があったか不明)
8月23日熱田の海上で、中山大三郎門弟合武三嶋流の船軍火術試合図火が行われる。
図は次に記す。
御用人衆の懸りは肥田孫左衛門殿、その他に2人の見分がある。
御船奉行御目付その他諸役人もやって来る。
珍しいことなので評判となり、人が多く集まる。
海では棒杭のあたりまで船を出してもよく、浜座敷の壮観さを沖から見ると、銀の燭台の紅い灯はまるで画をみているようで、集まった群衆の数はどれほどかもわからない。
新田堤も桟敷となり、船をびっしり組んで陸のようになり、これほど人が集まったのは未だ聞いたことがない。
火術の次第は次の如し。
(次第は略)
この23日は前日からの雨天で延期され、25日に滞りなく終わる。
最後の犇雷(轟音の出る合図)となり、今や今やと固唾をのんで待っていると八時(午前2時)になっても始まらず、終にはそのままになってしまう。
もっとも手抜かりはないようで、先生がとても不慣れなように見受けられる。
全てが上出来だったので至極残念である。
導火を消してしまったのかと思われたが、そうではなくて火薬が洩れたようで、九時(午前0時)頃に少しぼんやりしたまるで線香花火ようなものが行われる。
桑名・三河あたり、その他国中に知れ渡った華々しいことであったのに至極残念である。
見物は大いに待ちくたびれ、空腹の者たちもいると。
いずれにしても熱田で商売した者たちは大儲けと。
もっとも御上では容易ならざる苦労もあり、物入りだったと。
同日8月23日光音寺河原で御松明方の揚火が行われるはずのところ、雨天で延期される。
28日に滞りなく終わる。
(次第略)
(3-p62~p64)