名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

この敵討ちって本当に辰蔵は殺されなければならないの

文政10年。
7月10日夜、大雨の中、熱田八剣宮前松岡上総の家と借家が焼失する。
借家は上総扣門(脇門)前にある。
神職の家でありながら、火の不始末があったと噂する。

銀札を作ったことで永らく番を附けられた寄合組六十五俵原常九郎に流罪を仰せ付けられたことが明らかになる。
250石寄合組佐藤五郎兵衛はこのことが露見して行方をくらましたので、この家族は本家の御目付250石佐藤吉次郎が引き取る。
原常九郎。
詮議の上で申し述べる趣は、侍の身にふさわしくないような極めて不届きな行いがあり、その上最初に書面で問い合わせた際にはわけがわからないと取り繕い、いいかげんなことを書面で回答したのはあまりにも不埒なことであるので死罪を仰せ付けられるところではあるが、当年は公儀に格別の慶事があり、名古屋でも重要な法事があるので寛大にも罪を赦され、死刑ではなく流刑を仰せ付ける。

当夏頃から、一向宗の信徒が町の家へ僧を招き、法談を行うことが大いに流行る。
寺々での法談も当年は格別たくさん行われる。
これは本山の再建のためと当地懸所の新御殿の造営のためと。
いつものように人をたらし込み、小咄風の引用をしており、どうでもいいようなことが多すぎる。

7月4日、本町1丁目の御菓子屋桔梗屋又兵衛が葬式の際に許しを得て、揚張4つを持たせる。
このため同21日、伊藤次郎左衛門葬式にも4張を許される。

7月18日、渡辺殿が百人組玉火箭(矢のこと)を見物したが、同心の中の何某は箭が出ないので不審に思い、導火が消えているかと箭を抜こうとすると、急に箭が放たれて人差し指を撃ち、中指と人差し指が落ちてしまう。
仲間は急いで当人の目を覆い、その上で手を抱えると。
生まれつき柔和な男で気の付く優れた人物だと。
直ちに渡辺公の前に出て、その火箭の仕組みを話し、翌日も左の手で書状を記したが、下旬に死んでしまうと。

8月12日、孚式大権現(徳川宗春の神号)の遷宮が御下屋敷で行われ、7日多くの人が拝礼を行うが、紀伊治宝院公の娘で上様の姪の信恭院様逝去により14日から喪に服するため16日まで人を入れなくする。
その代わり20日まで延長を許される。

去る6月の敵討の書付、1枚摺りで売り歩くものの写し。
外記25才、雲龍34才、九市18才、辰蔵26才。
この度、讃州羽麻市川下中免の百姓の林の中で行われた敵討ちの顛末を尋ねる。
江州膳所の家中に平村市郎次という者がいた。
その二男は外記、三男は久市である。
この市郎次の旦那寺に辰蔵という下人がいた。
辰蔵は幼名を与之助といい、市郎次が仏を詣でた際にもらい受けて下人とした。
市郎次は召仕の女と密通している様子だったので、この女を辰蔵に嫁に遣わし、別に住まわせた。
辰蔵は柄巻研ぎなどを内職にし、市郎次のところでも時々仕事をし、市郎次も辰蔵の家を時々訪ねたが、またその女と市郎次が密通し、その噂が広まったので辰蔵に金子を渡してこの女を離縁させて事をおさめたが、辰蔵の友達が金で済ませたことを嘲った。
辰蔵は無念に思って市郎右を殺そうと思い、文政六未の4月に市郎次の家へやって来て良い刀があるのでご覧くだされと言うと、市郎右は用心もせず手に取ろうとしたところを一刀で切り殺し、直ちに出奔して国元へ戻り、研師として暮らしていた。
外記・九市は骨の髄から無念に思い、虚無僧姿に身を隠し、5年の間探し回って讃州羽麻市川下中免百姓の林の中で当閏6月12日七半(午後5時)頃に辰蔵宅へ押しかけ、敵討ちと名乗って兄弟は表口より中に入り、出会い頭に敵の肩先を切りつける。
辰蔵がと裏口へ逃げ出そうとしたところに虚無僧雲龍と申す者が通りかかり、尺八で打ちすえたところへ外記がすかさず駆けてきて兄の敵、思い知れと右の腕を切り落とす。
雲龍は岩国吉川の浪人黒川才次郎で、虚無僧仲間の礼儀で助太刀しており、以前両人と会って始終を聞き、ここにやって来ていた。
九市も続いて左の手を切り落とし、両人でなぶり殺しにし、終に本望を遂げ、村の代官に訴え出て、目出度く帰参する。

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