名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

辰蔵は悪くなんだけど

文政10年。
3月、大須五重塔がおおよそ出来上がり、この時講仲間の会所を南側に引く。
この跡地に稲八という茶屋店が出来、山門の外から通れるようにする。
これにつき、諸先生の碑も西南に引く。

4月1日、七寺弁天再建の棟上げを行う。

4月4日、名古屋あちこちに豆が降る。
16日、三之丸は御宮華表(鳥居)のあたりなどで大いに豆が降る。
やはり4日の豆であろうか。
大坂も3月28日に豆が降り、江戸も4月4日に豆が降ると。
後にこのことを伝え聞く。

4月1日より本町8丁目、9丁目の夜店の願いが済み、この町内の井惣、駒文、水口屋、本升屋、本久、巨勝、子園、その他の大家株(家主株)を持たない家でも残らず櫛類、小間物、小道具、その他の店を奇麗に出し、京都の四条通などのようになる。
長者町の子どもがこの夜店のような店を小さくこしらえ、竹床几にくくって門で夜遊んでいたのを真似し、子どもの夜店が大いに流行する。

魚之棚筋七間町を東に入った北側で大みたらしの店が出る。
1本150文ほどの品もある。

4月28日夜、御園御門南の柱の外側下から2つ目の乳(突起)に蛇が入り、蝙蝠を飲み込んで首を出して死んでしまう。

東懸所へ御門主の末子を連れてくる目論見から新御殿造営の地築が4月から始まり、町中、町内、家内残らず、今日はこの町、明日はどこの町と代わる代わるに出向く。
町代も了承しての触れもあったので、他宗の者などで出かけられない者は200文ほども出した町もあり、随分と面白いことのようで婦人なども土を吊り、その見物に行くだけでも楽しいことである。
右の新御殿は大きな一棟が出来上がるが、新門跡を連れてくることは叶わなかったと。
女人の講仲間は女木遣り歌を派手にこしらえて競い合う。

5月28日、広小路神明で正遷宮を行う。
この時は夜に開帳し、本町の夜店などもあるので特に大賑わいとなる。

6月上旬、袷で暮らす日もある。
当年は天候不順で、出入(喧嘩?)なども度々ある。

6月上旬、西蓮寺の僧が井戸へ入って死ぬ。
同じ頃、熱田橋で心中がある。(原文:熱田橋喜心中あり、喜がわからない?)

6月8日、七時(午後10時)、光り物が通る。
多度山の方へ入る。

6月10日、清水式部卿様逝去に付き、6月13日から普請は3日、鳴物は7日取りやめる。
天王祭は全て延期となり、次の通り。
若宮車引初は21日。
天王崎祭は20日。
片端試楽は23日。
若宮試楽は23日。
片端朝祭若宮車は24日。
水神祭は閏月3日。
津島は23日と閏月16日。
これは物静かにする。
以前に1日の巾下祭を御覧になるため延期して4日に、3日に引初、5日に本祭が行われる。
5日裏町下花車は小鳥落し、その他あちこちを残らずこの日一緒に行う。
同11日小田井祭を御覧になる。

6月上旬、本町の花屋敷角に幽霊が出る。
毎日辻で念仏を行う。

同18日から7月7日まで熱田大瀬古浦等覚寺で白山権現御作十一面観音を開帳する。

6月20日夜、御園御門の外に捨子がある。
24日、東懸所で首をくくる者がある。

6月24日若宮車の夜、広小路で侍が人形売りを斬ったが、その顛末を聞くとこの辰蔵が水に人形を浮かせて売っていると酔った侍4、5人がやって来て、その人形は沈まないかと言う。
辰蔵は少しも沈まないと答える。
侍は人形を突いて沈め、これでも沈まないかと言う。
江戸気質の辰蔵はこらえかねて大声をあげると、侍連中は殴れ殴れと言い、辰蔵は殴ってみろと言うので侍は脇差を抜いて棟打ちにしようとしたが、辰蔵がもぎ取ったので刀を抜くと。
人形売りは江戸のもので4、5日前に女を連れてやってきており、無宿者だと。
女を茶屋町布袋屋に泊まらせ、自分は日置に知り合いがいるので日置から広小路へ人形売りに出ていた。
生まれは伊勝村、年は22歳で名は辰蔵。
この侍は4、5人ながら春日の御先手組同心で、中でも喧嘩の相手は鈴木佐十郎という者だと。
佐十郎も足を少し奪われた切られたと。
その後侍は刀をさげて長者街を北へ逃げたと。
その後には刀の鞘と脇差が落ちていたと。
辰蔵の域があるうちに役人がやって来たので、詳しく本人が話したと。
その際にまことに災難にあったのは、木挽町の木田屋喜兵衛の手代である。
右の佐十郎が刀を抜く際に刀の先が手の甲をかすり、傷口が4、5寸(1寸は約3センチ)になると。
これもすぐに役人に話をする。
この辰蔵は亀粂の小屋へ預け、木田屋の男は守随へ預けおくと。
右の吟味の際、広小路の東の方へ亀粂あたりから矢来(柵)を設け、西は守随のあたりに矢来を設ける。
この際には犬狩の矢来を用い、はなはだ自由(この後で厳重と言いながら自由とは?)と。
何やら敵討ちなどのように厳重に見えると。
提灯弓張を近くの街から数百灯し、警備すると。
辰蔵のことでは、喧嘩のことはさておいても三通(通行手形?)がないのでは関所破りの罪でどうしようもなかった。
鈴木佐十郎は逃げたのを追手が追って揚り屋へ入れ、妻子は闕所となると。
佐十郎は優れた者で、連れの仲間がこの事件を起こしたのではと。
よくわからず。
この侍以外の者も人を切り、その場で町代を呼んで知らせると、相手が死ななければ赦し、死ねば切腹または解死人(斬首)だと。

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