文政7年。
10月9日評定所において次の通り。
小普請組 吉田勘之丞。
その方は小十人組徳山松衛と刃傷に及び、松衛が死んでしまったので切腹を仰せつけられるものである。
徳山兼三郎。
その方は当8月21日に父同姓松衛、吉田勘之丞、柴田告蔵、渡辺志摩吉と連れだって丹羽茂左衛門宅へ出かけたところ、松衛と勘之丞が口論となり、居合わせたもので仲介をし、皆で帰る途中で刃傷に及んだ際にその場には居合わせなかったが、そのまま放っておいのはとても不甲斐ないことである。
特に松衛は死んでいないので治療をくわえようと勝手に家へ引き取り、この一件を報告をしなかったのは全く配慮が足りないことである。
よって改易を仰せつけられるものである。
申10月9日。
この申し渡しの役人、次の通。
大目付山吹儀兵衛、御徒目付組頭弐人。
町奉行田宮半兵衛、御徒目付三人。
御目付兼松内蔵。
一 観之丞切腹の検使次の通。
御目付小塩安左衛門、御徒目付組頭二人、御徒目付三人。
一 介錯人、町方同心稲熊藤四郎。
目代に代わって勤める。
一 勘之丞は当日熨斗目、麻上下を着用する。
一 勘之丞の家族は母と妻だけだと。
一 刃傷の後、勘之丞はいったん行方をくらますと。
鳥居六蔵の時と同様に探し出すと。
その上でこの通り仰せつけられる。
一 当日切腹の場に着座し、白木の三宝に9寸(1寸は約3センチ)5分(1分は約3ミリ)を載せて出す。
当人がこれを頂く際に介錯人はよろしいですかと言う。
当人は不案内ですのでよろしくお願いしますと言う。
すぐに稲熊が首を打ち落とすと云々。
死骸は家へ下され、葬ると。
(2-p85)