名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

新人いじめのパワハラ

文政8年。
6月27日、光明寺の僧が熱田新柏屋お山(遊女)を殺し、自殺し損ねる。
初めて会っており、事情はわからないと。

7月1日、堀川端御船手代加藤為吉という者が同役横井勝右衛門を殺し、行方をくらます。
右の勝右衛門はとても憎たらしい男でいつも新人を嫌い、その日も役所で為吉をいじめていたと。
そのため仲間も大いに悦び、為吉の取り調べを手加減したと。

西水主町へ御芦が流れ着いたと。
提灯を2張以上は張ることは駄目とのことだったが、それほど厳しいわけではなく、8月には少々賑わうと。

7月11日夜、流川御先手組の小川瀬平妻が疳(癇)で自分の首を切って死ぬ。
24、5歳と。

7月27日、石河太八郎殿の末家石河杢左衛門殿、同申之丞殿は願いの通り本家へ知行を差し戻すように、その上長らく自らの知行で奉公を勤めてきたので杢右衛門殿には新知1500石、申之丞殿へ750石下され、〆て1100石になる。
右は本家がずっと困窮していたので願い出てこの如く。
石川太八郎殿は末家には内緒の3000石持ち。

8月11日から雨が降り出し、14日は雨風ともに激しくなる。
上有知のあたりでは洪水になる。
長良川では堤が切れたところは数百になる。
水位は2丈(1丈は約3メートル)ほど、浅いところでも1丈3尺(1尺は約30センチ)。
上有知の死者は60余人。

鷹司摂禄の娘で先の女御の妹の入内が8月22日となる。
右につき京都へ上使奥州会津松平肥後守、副使高家宮原弾正大弼、尾張大道寺玄蕃、紀州吉村八郎右衛門、水戸鈴木縫殿。
右の他、諸大名4品以上、20万石以上は使いを京へ送る。
その他、右以外でも先例があれば使いを京へ送る。
(進物略)

(2ーp57)