名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

漂流記

享保2年10月10日。
この朝、山中戸左衛門が死ぬ。
90を越えるとも、100とも。

一 私沖船頭の吉十郎は乗組員9人と船に乗り、去る申11月24日に江戸を出港しました。
同27日に下田の港に入り、御番所の調べを請けました。
同所を出港したところ子浦の沖で暴風に逢い、沖へ吹き流されました。
帆柱が折れて流され、さらに波・風が強くなり、梶1つも折れて途方もなく流されました。
どこの国の浦にも着けませんでした。
長い間沖を漂ったので飯や米もなくなり、運んでいた荷物の中から大豆21俵、その他干鰯などを食べ物にし命をつなぎました。
飲み水は雨が降った時にずいぶんと貯め置いて飲み水にしました。
そうこうするうち酉5月20日、島のようなところが見えたので元気が出て伝馬舟を下ろし、上陸しようとしたけれどかなりの荒磯で、舟では上陸するのがなかなか難しかったので10町(1町は約100メートル)ばかり沖から全員で泳いで上陸しましたが、人家は見かけませんでした。
山深く見えたのでどうしようかと思っていると7尺(1尺は約30センチ)ばかりの者が現れましたが、何かを話すのだけれど一向に通じませんでした。
そのためこちらから助けてほしいというようなことを頼んだけれど、これも通じなかったので手を合わせ礼をしたところ、この者も手を合わせ礼をして私たちの手を引き、山の奥へ連れて行きました。
14、5町ほど行くと、穴を掘り、上に木の皮などで囲った家がございました。
いずれも畳5、6畳が敷けるほどに見受けられました。
中からこの族の者が次々と現れ、中へ引き入れられました。
五穀の類は一切ありませんでした。
おつとせい・生鮭・猪・熊などを煮焼きしないまま生のままでくれ、12、3日ほど命をつないで逗留していたところ、この者たちは木の弓矢で魚獣を獲っておりました。
この場所は奥ゑぞ(蝦夷)とがち(十勝)という場所のようでありました。
それから6月9日にいるほあぶらこ(?)というところへ道のり3里(1里は約4キロ)ほど送られたところ、そこで松前様領内から商船頭七之丞という者がしびさり(シビチャリ)というところにおり、このことを聞きつけ、米・みそなどを持って行、まいりました。
ここには15、6日逗留いたしました。
同24日、しびさりへ到着いたしました。
商舟治右衛門という船に逗留し、7月2日、ひほく(ビボク)というところへ行き、佐次右衛門という商舟に一泊し、同3日にかばる(カパル)というところへ行き、蝦夷の者のところに一泊したところ、食べ物は右のような魚や獣を生でくれました。
同4日にざる(サル?)というところへ行き、蝦夷の者の家に宿泊したところこれまた食べ物は同様だした。
同5日にしこつ(支笏)いふづ(支?)というところへ行き、孫兵衛・奥兵衛・武兵衛の3人の商舟に一泊し、同6日にしうおい(?)というところへ行き、徳兵衛という商舟に一泊したしました。
同7日にくろべつ(?)というところに行き、蝦夷の者の家に一泊し、同8日にゑとも(絵鞆)というところに行き、弥右衛門という商舟に一泊いたしました。
同9日にうす(有珠)というところの半兵衛という商舟で昼飯を頂きました。
同日あぶた(虻田)というところへ行き、喜兵衛という商舟に一泊いたしました。
同10日におさまんべ(長万部)というところへ行き、蝦夷の者の家に一泊いたしました。
同11日にゆうべ(湧別?)というところに行き、庄次郎という商舟に一泊いたしました。
同12日にかるべ(カルペ)というところに行き、関兵衛という商舟に一泊いたしました。
同13日に小野というところに行き、蝦夷の者の家に一泊し、同14日に亀内というところに行きましたが、これまで定まったような道はなく、山や浜辺で蝦夷の者たちは家々に逗留しておりました。
右の亀内というところも松前様の領内で、番所もありました。
いろいろ吟味の上で、松前城下へ手紙を添えて送られました。
右の上陸した浜辺はとぢち(?)というところでありました。
ここまでの道のりは200里ほどと土地の者が言っておりました。
同7月17日に城下に到着し、御町奉行高橋浅右衛門様へ行って手紙を差し上げると、吟味の上、町に泊まることを仰せつけられ4、2、3日逗留いたしました。
右の役所から面倒をみていただき、金5両・米2俵を下されました。
その上、江戸松前様御屋敷へ手紙を添えて下されましたのでこの金子と米は逗留中の宿へ支払いました。
9月1日に松前を出発し、津軽領までの7里を海を渡り、上がった浜は外の浜、舎利浜というところでございました。
五色の舎利石ございまいした。
そこから南部領、仙台領を通り、道中つつがなく9月27日に江戸表へ到着しましたので右の手紙を松前様御屋敷に差し出すと、直ちに2人が付き添って八丁堀御屋敷へ行きました。
右の通り船頭、乗組の者どもが話していましたので書き付けて差し上げます。
酉10月10日。
なごや船入町。柏屋 市兵衛 印。
右は直紙(書状用の紙)に書き記し、10月17日に水主町太田惣右衛門のところに市兵衛が持参した下書きである。
イ市郎兵衛。
異本に申霜月(11月)28日に江戸を出航し、豆州子浦まで行ったところ遠州灘で暴風に会い、酉5月に蝦夷島へ吹き着けられた。
とかち3里、あふらこ舟渡り5里、三ついし(三石)10里、三おく10里、しひさり10里、壱つ10里、白おい(白老)1日路、ゑとも1日、うす1日、あぶた1日、おしやまんべ1日、をの1日、かめた1日、ここは松前の領内で関所がある。
松前かめたから3日路、ただしとかちから17日目に到着。
蝦夷の詞。
松前殿を四位の庄五、判官義経をかむいとの、庄屋をおとな、男子をはらし、女子をやから、遠国人をついといのしやも、弓をしつぷ、矢をてつぷ、小刀をまきり、薪をちくま、水をわか、塩をしつぷ、火をあべ、久敷事をやからてい、添という事をやいらをれ、何ぞという事をたんべひろしねこな。
右の他、酒、たばこ・熊・鹿・鷺の類は松前の商人が行き来しているので商人の詞をうけて、たばこはたばこ、酒は酒と言わせている。
蝦夷は日本の艮(北東)にあり、寒い国で5、6月でも少々雪が降ると云々。
船の9人は大坂あち川(安治川)の者であった。
そのうち1人は船中で死んでしまった。