享保2年9月5日。
建中寺を長上下で参詣する。敬公(徳川義直)・瑞公(徳川光友)・泰公(徳川綱誠)・円公(徳川吉通)・真公(徳川五郎太)の廟をまわり、霊屋で終わる。
享保2年9月8日。
参詣の間は雨が降らず、三の丸五仏殿で終わる。
享保2年9月11日。
8つ半(午前3時)に供揃えを行い、この朝卯半(午前7時)に岐阜へ出発する。清須では清太夫が現れるが、立ち寄らず。一宮地蔵寺で休憩する。円城寺で膳を食べる。御老中・家来まで食事が出る。下僕などは特に酒に酔ってしまう。合羽・篭などを放り出しどうしようもない。このため帰りには下僕に酒を出さないようにと御目付から指図がある。円城寺でゆっくりと休憩する。馬で源兵衛が付き添い、供をする。酉半(午後7時)、岐阜に到着する。鵜飼を見物する。
享保2年9月12日。
城山に登る。案内の者がこの谷に鹿がいると言うと、捕まえてこいと言う。五十人柴山文助・松原定助は羽折を脱ぎ、刀を置いて脇差だけで険しい山を下る。とても危険であった。しかし、つつがなく下る。谷に下りたけれど鹿は見えず。何とか山を登る。定助は少し木の株で足を突く。でかしたと褒める。昼過ぎに岐阜を出発する。円城寺へまた入る。膳を食べる。昼寝をする。供の衆にも昨日と同様食事が出る。600人前ばかりと云々。一の宮で日が暮れる。馬から下りる際に転ぶ。石川理左衛門が抱えるが、耐えられるずに一緒に転び、鍔が理左衛門の額を打ち、血が流れる。一宮から駕籠に乗る。岐阜奉行竹尾茂右衛門の献上は鯉5本・大うなぎ2本。鯉は生きた鯉で、以前の献上は生きた鮎であった。時服2つ(イ1)を下す。役所の裏に敬公(徳川義直)・瑞公(徳川光友)などの腰懸の跡がある。ここを訪れた際に下した。岐阜山で餅・菓子を差し上げたところ紋付・羽折を下す。
享保2年9月14日。
稲垣甚右衛門が生きた大鮒2枚と岐阜の酒若狭屋5升1樽を差し上げ、銀5枚を下す。岐阜勘右衛門に銀5枚を下す。野々垣源兵衛の献上は枝豆・きぬかつぎ・壺に入った手作の葱苳酒(にんどうしゅ)2升・木曽川で獲った大鱸2本。翌12日、帰る際に島台(飾りの台物)・生きた大鯉2本・生きた大うなぎ2本を献上し、銀5枚を下す。源太郎9歳の男の子が御目見に出かける。下し物はなし。円覚院様(徳川吉通)の時は5枚の他に奥から銀20枚を下す。この度源兵衛がかけた費用は700両近いと云々。源兵衛には1年の桴(いかだ)の運上が米700石ほどある。鵜使い頭に2分ずつ、鵜匠に1貫門ずつ下す。安藤右京殿から岐阜の宿へ使者と大鯉3本が来る。使者は上坂助太夫。尾公から使番大島六右衛門が出かけ、時服3つを遣わす。返礼の使いは御馳走の御礼使から石原甚右衛門が右の2人とともに加納へ出かける。右京殿からが使者助太夫がやって来る。岐阜町屋では御供番佐枝十兵衛が勤める。清須へは立ち寄らず。一宮地蔵寺で昼の休憩。ただしこれは11日だけ。喜右衛門が勤め、扱うのは西右衛門と云々。尾公はここで舟に乗ると言い出す。千村助左衛門が何とか役所の舟に乗せる。その後、この度はこの通りにしたので、今後はこの舟に乗せるようにとの願書を稲垣甚右衛門が取り次いで出す。
享保2年9月22日。
泉光院(徳川継友生母)から子(午後11時)過ぎに帰る。普段はたばこ・酒は飲まず、食事をよく食べ、食後は必ず針を打ち、痰がからみがちである。後藤玄隆が毎日夜に出かける。