享保2年8月30日。
文左衛門は文昭院様(徳川家宣)御仏殿御目見から直ちに若宮へ出かける。
以前主殿と文左衛門が手配する。
御作事奉行3人は先に、源五父子は昼過ぎにやって来る。
文左衛門は巳(午前9時)頃出かける。
叟(おきな)の始まるところであった。
中入りっもある。
12の桟敷から見物する。
神主から削り鰹・酒・饅頭が出る。
弥次右から煮物、文左衛門のところから酒1升・飯、いろいろな餅を持たせ供応する。
日が暮れて帰る。
この日、元重町新長屋の売女宿をやっていた者がたくさん追い出される。
売女も26人所を追い払われるとのことだが、詳しくはわからず。
その中でももっとも悪い者2、3人が牢に入るとも。
巾下新道あたりでも売女宿が所を追い出される。
少し前、新道で芝居が行われた時、泉光院様(徳川継友生母)の御はした(下級の女官)2人が見物に行き、すぐに逐電する。
売女宿に囲い置くと云々。
町方を追い出されると御国方にも寺社方にも置かず。
結局御国に置かないためである。
9月の初め頃、徐々に売女宿があちこちから追い出されることが多くある。
文左衛門が聞いたところでは善光寺町の段助、長者町の飛脚宿太兵衛。
町方でも36人追い出されると。
女奉公人も9月20日までに働き先を見つけるようにと。
売女などは父や兄弟にのところへ行くか、常々知り合いの男の部屋などに隠れ居る者がとても多いと。
町を追い出される際、急に道具を大道に放り出して困らせる。
これは手抜かりである。
寺社方では建中寺門前の裏町で1軒、常明寺前で1軒、およそ2人が追い出される。
つきぬけ長屋に売女40人あまりがいると云々。
追い出された際、荻野三九郎が住んでいたと。
その他鍛冶屋町の高橋も。
11両ねだり取られた者もある。
女の名は新けだし・けだし・大けだし・赤胴・広小路・古井戸などと色々。
10月中頃、日置村堀川の西、納屋裏などの売女を追い出す。