享保2年6月9日。
文左衛門は御下屋敷の庭の用務で巳(午前9時)頃に出かけてあちこちを拝見し、民部山の薬師堂前のあづまやに縁取を敷き、御下屋敷奉行2人とその支配の者などにも飲ませ、自分たちも藤左衛門からの食事を快く楽しむ。
弥次右と2人で古酒2升・鯐酢1重・かまぼこ1重・切飯1重を手代に頼んで調え、持参する。
津嶋の御供帳が出る。
6月、尾葉栗郡門間庄玉井村加茂の社の境で古い井筒を掘り出した。
天平3年辛仏字3月5日の字がある。
加茂の社祠官岩田某が奉行へ出かけて知らせた。
井筒は丸く、楔で締めてあったように見えた。
あい釘(合釘)などは古代のものであった。
穴の開いた□のような槙の木の板が16枚。
丸井戸でこの年まで987年と云々。
昔の玉の井(良い水の出る井戸)の墟(ふるあと)で清泉が湧き出していた。
玉の井を7月に掘り改め、8月23日に公へその水を献上した。
これ以後、人々は出かけてこの水を汲むと。
井戸は神主の敷地の右の方であった。
古くから伝わるところでは信州松本に近い藤井村で古代の温泉の跡から湯舟を掘り出し、湯も湧き出たと。
摂州ながら(長柄)の橋柱、三州八橋の木、今なお時おり掘り出す。
尾領安八郡森部村に神明の祠があった。
内下宮、昔皇大神を数年崇めた旧跡と。
ここには岩船・宇治橋などと呼ぶ古くからの場所もあった。
宮跡の河原など今は除地(年貢など免除された土地)であった。
その橋の墟には地中に橋柱が時あおりあった。
大きくて動かすことができなかった。
水は枯れているようだった。
垂仁帝であれば天平の700年あまり前か。
かなり昔の橋柱ならば朽ち果てるはず。
後世の小熊(ヲグマ)道の橋であれば、架け改めてもまた幾100年にもなっている。