名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

なんと大業しい

享保2年6月1日。
能が辰(午前7時)過ぎに始まり、未3刻(午後1時半過ぎ)に終わる。
御楽屋奉行は森本孫介・海保弥之右衛門・御黒門頭都筑元右衛門・馬場三右衛門が勤める。
白洲の上を蝋障子で覆ったので風が入らず。
公が現れると扇子も使えず、とても蒸し暑くて耐え難い。
大橋小伝治は下に袴を着て出向き、食事の時は汁が冷たく、水あえを食べなかった。
酒を少しずつ吸いながら飯を食べる。
やがて蒸し暑くて気が遠くなると云々。
寅の間の東で立っていたが倒れて気を失い、しばらくして正気に戻る。
2人の子が介抱して歩いて帰る。
白洲の町人にはこわめしが下される。
その日その日の札を用意する。
惣支度は2000人前ほど拵えると。
その中で1汁1菜は1500人前。
ごぼう・くずし(練り物)の汁などにするめ・白瓜の水あえ。
奈良漬け香の物は2切れずつ。
酒を下される。
白洲へは700人あまりと云々。
黒大豆の入った強飯を850余り包む。
御家老から朝岡弥五右などまで同席し、2汁3菜の料理。
1000石以上は御書院番所で御歩行の衆が給仕する。
羽衣が終わって中入り。
能の御用は天野四郎兵衛・御作事奉行戸田源左衛門が勤める。
開始の声は御側同心頭富永左門が初めて勤める。
前々は御家老が勤めていた。
能が終わった礼は大道寺駿河守殿へ出向く。

周防守(織田貞幹)が名古屋へ到着する。

御茶壷は清須で昼休み、鳴海に宿泊する。
1汁1菜の食事には黒門足軽30人、うち20人は給仕、10人は盛り方。
もちろん前々の通り五十人衆も担当する。