名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

哀れな老人

享保1年12月29日。
赤津粉屋勘右衛門弟が2、3日逐電する。
この夜、熱田で見つけ、船に乗っていたのでその船待てと呼びかけると、男は海に飛び込む。
女を連れていたが、女も飛び込んだところを引き上げられ、2人とも死ななかった。
女は鮎川甚ノ右衛門妾の妹であった。

橋爪増左衛門を狙う者があると隼人正留守居榎本三ノ右衛門から新蔵へ言ってきたので、交代を延期しようと言うも目付2人が納得しなかったので、足軽2人を付けて名古屋へ戻る。
増左衛門はこれでは面目ないと言うが、2人が付いて戻る。
代右衛門のところからも手紙で、あの源助兄弟が道中で狙っているので用心しろと申し遣わすと。
増左衛門兄八左衛門子の丈介が、翌酉正月2日に尾張を出発し江戸へ向かう。
伯父増左衛門が晦日に江戸を出発するのでその迎えであった。
これは新蔵から目付と連判で彼を狙う者があるとの内々に申してきたので、壱岐守(竹腰)内意でこの如く。

28日酉上刻(午後5時半)、永井善左(右)衛門が奥の火燵の間で自殺する。
62才。
いつもの衣服で前帯であった。
咽を切って外へ切り、腹を一つ突いて、即死する。
小頭の見分だけで済ませる。
勘之右衛門は台所に牢を作って入れてあり、一家でこれを守っていた。
註、勘之右衛門は従弟善右衛門に御預け中の者。
善左(右)衛門の今の妻は中山文左衛門妻の時に関係を持ち、前の妻を無理やり離別して妻に入れていた。
近頃、善左衛門は気力が衰え、妻が満足していないことがよくわかり、その上色欲にどん欲なことも知っていたのでとても嫉妬していた。
近頃、預けられた者がいて人がたくさん出入りしていたので、ますます疑っっていた。
妻にともに死のうと言うと、妻は走って僕の長屋に入り、隠れていた。
このため仕方なく自殺した。
この脇差は元は中山文左衛門が所持していたものと。
この前にも人と争い、妻は逃げて長屋に隠れたことがあった。

少し前、御下屋敷の中の北の橋の上で中間小頭の11になる男の子が鳩の巣をうつむいてのぞいていて落ち、人知れず死んでしまう。