享保1年12月19日。
亥半(午後10時)頃、志水観音堂から少し北側の紺屋八大夫裏から火が出る。
あちこちへ燃え移り、寅刻(午前3時)に鎮まる。
北は新道から1町(1町は約100メートル)程南まで焼ける。
南は下馬杭まで、東は藪まで、西側もその境まで焼ける。
観音堂の門は引き壊し、堂の屋根もほとんどめくってしまう。
しかし、堂は焼けず。
東側の治右衛門居宅も焼けず。
表の借屋は焼けてしまう。
その他にも引き壊した家を見かける。
南北2丁ほど、東西両側が焼けてしまう。
初めは艮(北東)の風で、その後北少し西の風になる。
風は弱ったとのことである。
文左衛門は弥四郎のところへ出かけ、そこから御多門へ出かけ、小頭に会う。
それから弥四郎のところへまた走って行く。
寅(午前3時)過ぎに帰る。
弥四郎のところでは道具はもちろん畳・戸・障子なども残らず外に出す。
雨が降り出し、やれ入れろと中に入れる。
どうしようもないことである。
火の粉は少しの間だけ見える。
丸山加平次のあたりへも火の粉・灰が多く飛んでくる。
火元は八大夫裏の65になる作兵衛という者であった。
火を出すと行方をくらまし、森相模支配の田畑大日堂で首をくくって死んでしまう。
15日にこの死体をいつものように取り置く。
作兵衛は女房と2人だけで住んでおり、近頃70になる女房は眼の病気のため甥の小野田為右衛門のところに養生に行って留守であった。
焼失した家数はあわせて157軒。
内訳は、名古屋村4軒、杉村出町95軒、池町58軒、ほかに崩れた家4軒。
東の焼けた長さは130間(1間は約100メートル)、西は121間。
戌半(午後8時)、巾下さこ(栄生)町で1軒焼失する。
浜嶋宇右衛門は娘を八郎右衛門に嫁にやり、八郎右衛門に祝儀に出かけているうちに志水で出火する。