享保1年11月29日
米は4斗3升ほど。
近頃、頼母妹おひろを五味市右衛門の嫁にとのことで道具が届くが、その間に本寿院様(徳川吉通生母)から止めろと言ってきたので道具を戻させる。(註、月末を見よ)
25日、東寺町禅宗曹洞善久寺・臨済正徳院・天台千葉寺は裏で接しており、博打好きで好色であった。
善久寺と正徳院の2ケ寺は追放となる。
千葉寺は維摩院の弁解から他国隠居となる。
五十人片山源之右衛門は江戸ではふらふらとうろつき、狐憑きのようであった。
このため理由もなく、道中10日をかけて名古屋へ戻る。
大井川を越しても僕に一銭も渡さず。
僕は迷惑しながらも、何とか駕籠賃や旅籠賃などを工面して戻ってくる。
28日か29日かの間に古屋に到着する。
自分の家は建中寺裏町にあったが、表の借屋安藤伴悦のところに落ち着く。
べんくわんと(?)火燵にあたり恍惚とする。
伴悦は気の毒に思い、源之右衛門の本宅の戸などを開けて掃除をさせ、なんとかだまして本宅へ行かせた。
この日頃のことか、鈴木主膳殿が名古屋に戻る。
美濃のあたりは大雪で、4里(1里は約4キロ)を1日もかかる。
29日夕暮れ前、橋爪増左衛門子の代右衛門が浪人川瀬源助を切って行方をくらます。
増左衛門は江戸で留守であった。
源助は駿河町大工吉左衛門という者の子で、初めは源之右衛門と名乗っていた。
野呂瀬内記に最初奉公し、今は浪人で父と一緒に駿河町に住んでいた。
12月1日の夜に源助死体を父が受け取った。
増左衛門は八右衛門の弟であった。
増左衛門は以前下女1人を雇っていたが、これは妾であった。
この妾の兄弟は知多善左衛門の妻と巾下に住む御医者□の妻であった。
隼人正出頭(寵愛)の何の金古とかいう坊主の妻になると暇を乞うが、増左衛門は暇を与えなかった。
増左衛門が江戸留守の間に金古がやって来てこの女を預けたと云々。
代右衛門も承諾したと云々。
10月頃、この女は髪を切り、腰懸に置いて逐電した。
その後また探し出して連れ戻した。
代右衛門の書置には盤上でやむを得ないことがあったので切って立ち去ると云々。
しかし、これは口実であった。
代右衛門は博打好きで好色の悪党だった。