名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

まあまあで済ませられなかったのか

享保1年8月27日。
戌(午後7時)前、巾下紙漉市右衛門の前で壱岐守(竹腰)屋敷奉行児崎(嶋では)瀬右衛門三男仙之右衛門と梅昌院(徳川綱誠側室)御侍浅井武右衛門四男甚九郎18が喧嘩する。
この2人のほかにも連れがいた。
笠寺を詣で、人ごみの中で児嶋の鞘に浅井が当たり、わざとではないと言った。
茶屋でわざと浅井の頭を児嶋は扇で打ち、わざとでないと云々。
互いに口論となるが、連れが仲介しておさまると云々。
浅井は帰宅して果状を児嶋へ送り、稲生へ出て来いと云々。
児嶋も戻って髪を結いなおし、帷子に着なおして勝負と出かけようとしたときにこの手紙を見て、わかったと手紙を引き裂いて出かけると、市右衛門の前で出会った。、刀を交えると児嶋は刀を叩き落されたので、脇差を抜いて浅井の頭やそのほか数か所を切り突いた。
児嶋も顔の正面を目まで切られ、横鉢(頭の横)を目の下まで切られ、そのほかにも数か所切られ、右の手は皮だけを切られる。
双方とも一緒に倒れるが、児嶋は相手を仕留めたので退こうと思い、壁づたいに作内の方へ行くが、西岡宇内の前で倒れて死んでしまう。
脇差の鞘だけが腰にあった。
脇差と刀の鞘は紙漉の前にあった。
刀は伊藤平兵衛の前にあった。
右内から侍に見えなかったのか筵屏風を立て置いたが、翌日未(午後1時)過ぎの五十人目付検分の際に葭簀で覆いをし、本物の屏風を立てると。
児嶋の脇差だけに血がついていた。
浅井は由緒ある者で、市右衛門のところへ退き、そこから父のところへ引き取ると。
よほど深い傷と云々。

近頃、笠寺開帳し、人が多く集まる。

少し前から今まであちこちで瘧(おこり、熱病)がとても流行る。
その中には重くなる者もあり、軽くても治った後皆が用心する。