名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

大災害じゃないですか

正徳5年6月17日。
一家が集まり、いろいろと取り仕切る。
文左衛門は側に控える。
流れる涙が時々止まらなくなる。
夕暮れ前に出棺する。
文左衛門・文四・友四が附いて行く。
広小路伊勢町あたりで提灯を灯す。
葬って土をかける頃には暴風雨となる。
帰りの道には水が溢れ、雨羽折(雨合羽)でも上下も帷子も黒くなり、しっとりと濡れてしまう。
戌(午後7時)過ぎに帰る。
そめ・さん・さき・伊勢町のそよの女4人が附き行き、このような雨でも参詣の人は多かった。
小塩園右衛門の若党を借り、帳面を付ける。
辰半(午前8時)過ぎ、八平を遣わし棺などを用意する。
善篤寺へ母親の逝去を申し遣わす。
穴を掘る時は八平が附いているようにと昼飯を遣わすが、寺僧が附いているので大丈夫だからとのことで八平を帰す。
随分と穴を深く広く掘り、敬意公(昨年亡くなった文左衛門の父親)と並べ、これからは南から拝むようになる。
寺が戸板を覆いにしてくれたので雨は少しも入らなかった。
木の下であったので掘った土も濡れなかった。
埋める際には雨が少しも支障にならず、文左衛門は心配していたがとても安堵した。
棺には若党市右衛門、その他にも坂下の金平、その上権七・平左衛門などもやって来て人が余る。
棺舁3人ばかりを雇う。
深夜に文左衛門は起き、昨夜までは手燭を灯して病気を様子を見ては少しも苦しくないと大いに悦び、苦しいと言われるととても戸惑ったていたの、この夜はこの風雨の中で土の下に入ってしまったのだと蚊帳の中で腹ばいとなり、あふれる涙が止まらなかった。
こん・すめなども懐かしい話をして涙ぐむ。
文左衛門は生きている間は親不孝ばかりで、何事においても母親の心に背いたことが今になって張り裂けるばかり、悔やみ・悲しみ今までの愚かな悪事を恐れ、恥ずかしみどうすることもできなかった。
ああ。

6月17日には濃州は激しい洪水で昨年金1000両ほどかけた堤も崩れる。(中略)
勢州長嶋では急に水が押し寄せ、いつも洪水の際には薬師堂という岡に人々は上るのだが、今回はこの岡に上ることもできなかった。
これはこれはと言ううちに死んでしまった人も数百人と云々。

錦織で2升の水。
材木は残らず流出と云々。
上流で山崩れがあったのか家がかなり流れてきたのを錦織で留め置くと。
木曽中あちこちで山崩れや土石流があり、どこの場所でか前後が土石流になり、そこにいた男女40人余りと馬4疋が餓死すると云々。
木曽川筋では30年来の災害と云々。
円城寺には死んだ馬2匹が流れてくる。
これは山村甚兵衛の馬であった。
馬屋が川端であったので流されてこの如く。
家の棟には人が立って呼びかけ、悲しんで流れてくる者いたと云々。