正徳5年4月11日。
少し前、市買(市谷)煙草所で藤田左門の火事頭巾を津田民部が所望する。
見世物にはせずと云々。
民部の挟箱に左門が腰をかけたのを民部に詰問され、左門は足で蹴りつけた。
民部は怒って左門にこれから状で申し入れると云々。
加藤伴左衛門が仲介し、帰ってから伴左衛門は左門のところへ行ってなだめ、その夜には伴左衛門のところへ民部・左門、その他に御先手2人を呼び、仲を取り持つ。
このことを名古屋では左門と伴左衛門が喧嘩したともっぱら話していた。
特にその頃伴左衛門は屋敷替えで道具などを運んでいるのを見て、そうら屋敷を空けているいろいろ話していた。
世の中では厳しい飢餓。
常滑の側のたん(多屋)村では61人が餓死する。
布土(ふつと)・古布あたりの者は毎日のように餓死する。
その他でも同様に餓死する。
野間村・柿並太坊や寺家では残らず施行を行う。
その後金5両が下される。
その他中通り宮津の惣平・東浦緒川の源左衛門なども施行を行う。
林勘平が役を解かれたのは熱田夫食(ぶじき)のためと。
千村助左衛門のところは願いが叶ったのに、勘平のところは願いが叶わなかったので兵部殿へ厳しく申し立てた。
兵部殿は贔屓していると云々。
勘平は気がせいてますます争うと云々。
このことが原因と云々。
その時に役を解かれた際には引っ越すようにと。
熱田は旅客要枢の地なの諸役は仰せ付けられるとすぐその日に移り住むことと云々。
近頃、南寺町法蔵寺で四十八夜が行われる。
1日に3人3座ずつ。
談義朝は諦道和尚、昼は了義和尚、最後に諦門和尚。
仰々しく張紙がしてある。
諦道は談義ではなく仕方咄(身振り手振りを交えた咄)で、女形婆の真似などはまるで狂言であった。
心ある者は絶えられず、仏法の摩滅を嘆くと。