正徳4年11月30日。
七つ寺の謡仕舞がこの日限りで終わる。
禁裡の役者だと云々。
地謡がとくによかったと云々。
毎日見物が群れ集まる。
佐藤善次右衛門知行所中嶋郡池辺村の百姓7人が妻子を捨て置いて逐電する。
高100石と云々。
御代官衆などに報告し、籾を善次右衛門のところで刈り取ったところ25俵あったと云々。
後に免を1つ7厘とし、口米を上げる。
毎年のように善次右衛門は免が高かった。
今年も定免で免は下げないと弟の清大夫が無理を言ったのでこのことが起こった。
善次右衛門は在江戸であった。
12月1日の頃か、任官のことを駿河守殿(大道寺)から馬杉権右へ状が来る。
それには泉光院(徳川継友生母)と書いてあった。
これから初めて泉光院と呼ぶことになる。
今までは御実母様と称していた。
これより御老中なども出向くのを控える。