名古屋の町は大騒ぎ

名古屋でおこった江戸時代の事件を紹介

これぞ漂流記

正徳4年11月9日。
大坂松本町船頭政之助25才の口上。
この者は当町紙屋理兵衛の船頭で去年巳11月19日に材木・米などを積んだ船に乗り、当地堀川から出航し、同21日志州鳥羽へ到着し、そこから紀州里の浦へ向かい、同28日夜出航して大坂を目指したところ、翌夜強風にあい、吹き流されてしまった。
その日出航した船が3、4艘が見えたが、その後見えなくなってしまった。
船に乗った9人が米を噛みながら過ごした日数は120日程と思われた。
その間に磁石を出し、南北を知ろうとすると太陽も月もおおよそ北の方に見えた。
百里(1里は約4キロ)離れた南の海と思われた。
全員念仏を唱え、何とか土地のあるところに着いて水や食をとれるようにと祈った。
海で大鳥雁(コウノトリのような大きな鳥)のような黄色い嘴を持ち、鼠色の1丈(1丈は約3メートル)4、5尺(1尺は約30センチ)ばかり羽を持った大きな鳥2羽が船にやって来て止まった。
これは島も近いと思ったので米を洗い、鳥に与えたが食べなかった。
この鳥が来てから海の荒れなくなったのでますます念仏を唱えた。
晩頃、鳥は飛び去り、翌日にはまたやって来て止まった。
その後、船の者たちは鳥の側に寄って撫でたが、驚きもしなかった。
念仏の加護だと思い、ますます帰国を祈った。
その間天気も良く、海も暖かで一重もので暮らすことができた。
北西の方遠くに山が見えたので皆勇気づけられたが、既に帆は吹き破られ、梶も折れていたので櫂などを使って漕いでいくと、3月24日に琉球国のしま切という地にあるこみ村という港へ船は着いた。
大鳥もこのあたりまでは見えていたが、その後飛び去ってしまった。
琉球人が現れて様子を聞いたが、船からは上げず、日本の番所へ知らせるとのことで食物などを与えられた。
松平薩摩守様から琉球琉球へ遣わされた番人の役人佐合太郎右衛門殿付田嶋市兵衛殿がやって来て調べ、その後は船中に置かれ、船の廻りに垣を結ばせ、外へ出ることはならぬと言われた。
毎日もてなしを受け、7月11日に出航し、薩州山川の港へ着くと船の修理を仰せ付けられ、大坂へ帰って行った。
この9人の内1人は船中で病気になり、死んでしまったので海中へ沈めた。
薩州へ着くと盆の中(役人?)に断りを入れ、寺を頼んで法事を行った。
以上。
午11月。
死んだ1人は日蓮宗と。
12月28日、尾公からこのことで薩摩守殿へ礼がある。
佐合太郎右衛門へも時服2つ遣わされる。